| 研究者所属(当時) | 資格 | 氏名 | |
|---|---|---|---|
| (代表者) | 高等学院 | 教諭 | 松島 毅 |
- 研究成果概要
『和泉式部日記』にたった一か所、「御いとこの三位」と紹介されるのみである、藤原兼隆の伝記構築を目指した研究。作品後半で主人公「女」と「宮」が車中で逢瀬を行う、その場所が藤原兼隆邸なのである。この車中の逢瀬は、それ自体が特異な出来事だが、たった一度、しかも実際には登場しないにも関わらず、その場所が兼隆の邸であると特定されることには重要な意味があるはずである。なぜ兼隆の邸と明示されるのか、それは作品の成立や第一次読者に関わる問題に違いない。
研究開始が十月と遅かったこともあり、資料の収集から始め、現在はその資料に随時目を通しながら整理を試み、また時に気になる出来事や周辺の人物について調査する作業を進めている。兼隆自身については、作品における現在となる長保五年~寛弘元年から、その前後に調査を広げる形をとっているが、夙に知られるごとく、この時期の史料として最初に閲すべき藤原道長『御堂関白記』・藤原実資『小右記』がともに長保五年の記事を欠き、得られる情報が限定的なのは残念という他ない。兼隆は、一般には粗暴な振る舞いで名高く、また道長への追従甚だしい人物として知られるが、倉本一宏『三条天皇』によれば、長和元年の娍子・妍子立后に際し、道長の娘である妍子の飛香舎参入に際し、指名もされずまた自身も行かなかったことが指摘されている。さらに興味を引くのは、兼隆同様に「来なかった人物」に藤原公季と藤原隆家が挙げられている。本文、また読解によっても相違が出るが、公季と隆家もまた本作品に話題の中で登場する人物である。これは注目してよいことではないか。昨年中古文学会において、大貫正皓が妍子後宮と本作品の親和性を論じていたことが想起される。そうした成果を支持するものか反証となるかは今後の課題というしかないが、そうした意味でも兼隆について考える意味は、本作品の研究上小さくないと考えられる。