| 研究者所属(当時) | 資格 | 氏名 | |
|---|---|---|---|
| (代表者) | 高等学院 | 教諭 | 中野 茂 |
- 研究成果概要
本研究では、ディドロとダランベールの『百科全書』がフロベール『ボヴァリー夫人』に与えた影響について検討を行った。従来、この問題は主として『ブヴァールとペキュシェ』との関係において論じられてきたが、検討の結果、『ボヴァリー夫人』においても『百科全書』の影響が重要なかたちで認められることを示した。とりわけ、エマの通夜における論争の場面で『百科全書』が言及されていること、さらに19世紀にはラルース辞典が百科全書派の理念と方法を継承しつつ、「辞書の世紀」における知の再編を推し進めていたことを踏まえ、変質した百科全書的知が『ボヴァリー夫人』に浸透している過程を明らかにした。
また、本研究では、近代科学の専門化と出版産業の制度化が、知を「有機的体系」から「断片的配列」へと変質させた点に注目して、『百科全書』が志向した〈知の樹木〉は、19世紀に入ると実用百科の形式のもとで部分化・小型化され、相互の連関を失っていったことを確認した。『ボヴァリー夫人』では、その地方的縮図がオメーの言説と身振りにおいて演じられていることを示し、そこで、ディドロが追求した〈連関〉の理念が、内容を失った〈空虚な形式〉として再演されていることを明らかにした。
さらに、『百科全書』が単なる知識の集積ではなく、理性の自己省察を促す装置でもあった点に着目し、フロベールがその理念の崩壊後の世界において、知識の断片化そのものだけでなく、それらの断片が社会的威信へと変換される過程を描き出していることを解明した。とりわけ「紋切型」の詩学は、常套句を採集し鏡像化することによって、読者に、自らが語る言葉もまた既成の辞書的言説に包摂されているのではないかという不安を突きつけるものであることを示した。以上により、フロベール文学が19世紀という「辞書の世紀」における知の制度化と断片化に対する、きわめて鋭い文学的応答として位置づけられることを解明した。