表題番号:2024C-764 日付:2025/03/31
研究課題和泉式部日記に登場する同時代人物に関する研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 高等学院 教諭 松島 毅
研究成果概要
  『和泉式部日記』は、その男女主人公が、「宮」・「女」と、三人称化されたうえ、両者を特定できる材料は極力排除されているという特徴があるが、実名ではないものの、描かれる年代・出来事に照らして、事実上名指しされているに等しい人物が存在している。該当者は数名いるが、本研究では、このうち、源俊賢と藤原隆家を中心に検討した。この二人の登場は、伝本による相違である。すなわち、現代の注釈書において主流の存在を占める三条西家本においては、「治部卿」とあり、この場合は源俊賢なのであるが、一方、現存伝本の大多数を占める応永本においては同じ個所が「兵部卿」とあり、こちらだと藤原隆家を指していることになるのである。
  単純な話としては、書写伝播上の過誤ということが考えられる。「治」という漢字のつくり「台」の部分は、書き方によっては「兵」と書き間違える、あるいは読み間違える可能性があるからである。どちらがどちらに間違えたのかは、判断が難しい。一方、そうした書写上の過誤ではない場合は、「治部卿」俊賢と「兵部卿」隆家とを間違い得る、あるいはどちらでも通用する理由を考える必要がある。俊賢・隆家は、「宮」の女房の噂の中で、「女」和泉式部に通う愛人として登場するのだが、現存史料に俊賢・隆家それぞれと和泉式部の交流を示すものはない。登場はあくまで噂であり、必ずしも愛人とは限らないのではないか。俊賢に関する最新の研究では、長保五年当時の俊賢は、藤原道長の傘下にありつつも、没落した中関白家に好意的な姿勢を示していたことが知られ、一方で隆家はまさにその中関白家の一員である。そのように想定すると、十月記事において、「女」が断ったとされる「一の宮」への宮仕えとの関連が浮上する。「一の宮」について誰を指すかについて議論はあるが、常識的には敦康親王を指すとみるべきであり、敦康はまさに、中関白家の血を引く皇子であり、この時一条天皇第一皇子として、次期の東宮への可能性を十分有していた。俊賢あるいは隆家が和泉式部を敦康の女房として勧誘していた可能性はあるのではないか。こうした想定が可能であれば、本作品を当時の政治状況において、より実在の和泉式部に引き付けて作品を読むことの新たな可能性が開かれてくるのではないかと考える。