表題番号:2024C-625
日付:2025/04/02
研究課題日本近代演劇史における小山内薫再考 ―大正期から昭和初期の戯曲と上演を中心に―
研究者所属(当時) | 資格 | 氏名 | |
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(代表者) | 演劇博物館 | 助手 | 熊谷 知子 |
- 研究成果概要
- 小山内薫(1881―1928)は日本近代において、劇作家、演出家、翻訳家、小説家などとして多面的に活躍した。なかでもよく知られているのは、自由劇場(1909―1919)と築地小劇場(1924―1929)におけるいわゆる新劇の活動であるが、実際の仕事を見ると、歌舞伎や新派などに関するものも多いため新劇の範疇に収まるものでは到底なく、実に領域横断的である。しかし、戦後の小山内薫あるいは新劇に関する言及が限定的・偏向的であったことから、今日では閑却されてしまっている側面が少なくない。本研究は、小山内薫がこれまでどのように語られてきたのか、そして、実際には誰と、どこで、どのような仕事をしたのか、ということを彼の戯曲や上演を中心に検討するものである。なかでも今年度は、小山内薫の戯曲「国性爺合戦」(近松門左衛門原作)を中心に研究発表、論文執筆を行った。この戯曲は築地小劇場のために1928年10月に発表され、同月に築地小劇場で土方与志の演出により上演された。このころ、小山内薫は頻繁に「国劇」という理想を掲げており、その実践として当該戯曲の執筆に取り組んだとされる。今回、小山内の戯曲を近松門左衛門の原作と比較検討した結果、明国の帝の愚かさを強調している一方で、日本の国粋主義的な部分はそのまま採用しているということがわかった。この戯曲を発表した2か月後に小山内薫は急逝してしまい「国劇」の全貌がわからないままとなってしまったが、小山内の死後は新劇の劇団ではなく、歌舞伎俳優たちの一座によって歌舞伎の興行の中で数度演じられたという経緯がある。そのような意味でも、「国劇」という観点からこの戯曲が上演された時代の社会とあわせて分析することは不可欠である。同時に、新劇と歌舞伎や新派を対立的に捉えていてはわからない側面が多い。今後は小山内の死後の上演の分析をさらに深めていきたいと考えている。