研究者所属(当時) | 資格 | 氏名 | |
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(代表者) | 文学学術院 文学部 | 教授 | 川瀬 由照 |
- 研究成果概要
東大寺法華堂内には我が国を代表する奈良時代の仏像が多く安置される。現状、中尊は乾漆造不空羂索観音像、左右の間に同材質の梵天帝釈天像、その前に金剛力士像、四隅に四天王像が安置される。中尊背面には塑造執金剛神像がある。かつては中尊像の前方左右に塑造伝日光月光菩薩像が置かれ、内陣の後ろに塑造弁才天、吉祥天像があった。また近年の研究では中尊像と伝日光月光菩薩像の八角二重基壇上の四方に戒壇堂の塑造四天王像があったとの見解がある。さらに法華堂と内部の仏像に関しては同時期につくられた可能性が低く、恭仁宮で製作された瓦が用いられていることから宮の造営期間天平12年(740)~15年ないし、それ以降の建立が想定される。
本研究では各像の安置時期について考察した。中尊像に関しては紫香楽宮で制作されていたのが平城京還都によって大仏造立事業も移転、不空羂索観音像本体も移転、天平15、16年頃までに本体が完成、光背は遅れること天平19年(747)に制作されたと想定した。建物(法華堂)は還都により制作途中の仏像を安置すべく、急遽恭仁宮で余った瓦を用いて完成に至ったのであろう。
近年、不空羂索観音像がのる八角壇のうち上壇の年輪年代測定が行われ、729年の伐採年代との見解が出た。この基壇はむしろ当初執金剛神像と伝日光月光菩薩像、四天王像の一群の壇とみるべきとの見解に至った。作風の上からも不空羂索観音像より古いとみなされ、現在の上院地区で制作され、その後法華堂が建立されるに当たり、八角基壇とともに塑造群が法華堂に移転し中尊の周囲に安置されたと考えられる。残る乾漆群は近年の研究では講堂からの移転も想定されているが、法華堂の左右の間の天蓋を考慮すれば、本来は法華堂の随侍像として計画、制作されていたものが八角壇と塑造群の移転とともに現状のような窮屈な状態で安置せざるをなくなったのではないかとみなされる。