表題番号:2024C-275 日付:2025/03/31
研究課題映画における社会性とはなにか――諏訪敦彦、新海誠らをめぐり
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 高等学院 教諭 大原 宣久
研究成果概要
「映画と社会」という古くから存在する問題系を近年の映画作品を題材に再検討した。まさに「社会性」を引き受ける覚悟で、現実社会に起こったカタストロフ、東日本大震災を描いた新海誠。震災孤児の少女・鈴芽を主人公とした『すずめの戸締り』(2022)は、その実、真に問題となるべき為政者の責任といった社会的問題を隠蔽したうえで、スペクタクル化の力学や保守的・愛国的な意匠とともに、鈴芽の成長物語・恋愛物語に横滑りしている。かつての新海に対する「セカイ系」批判の中心にあった、社会という中間項、とくにそれに対する批判的な精神の欠如は、『すずめの戸締り』でもいっこうに解消していない。これと対比すべき作品として、震災孤児をめぐるロードムービーという形式において共通する(先行する)諏訪敦彦の『風の電話』(2020)に注目する。今は地方で暮らす少女が自身のルーツである東北に向かい、震災の記憶と向き合おうとする点では共通するが、『風の電話』において注目すべきはまず『すずめの戸締り』にあったような震災のスペクタクル化の力学がないこと。そしてさらに、主人公ハルが震災とは無関係な他者(原爆を体験した老婆や、父親を入管に奪われたクルド人の少女ら)と関わり、彼女らが連帯・共感を示す点だ。ハルの悲痛な体験をほかの複数の登場人物たちと共有するということ、個人的な体験の個別性、絶対性そのままに、他者と共感し、共感されること、それがゆるやかな快復の契機となっていく過程が描かれる。いっぽう、『すずめの戸締り』は地震の秘密、世界の秘密を知るわずかな者たちだけの閉鎖的空間で物語は完結していた。大衆がその秘密を知らずにいるからこそ、鈴芽は地震の「閉じ師」という草太の任務を尊いものととらえていたが、こうした構図が神道的意匠と巧妙に一体化し、一般大衆や外国といった他者は排除され、社会が描かれることはないのだった。