表題番号:2023Q-021
日付:2024/03/29
研究課題甘粛酒泉出土墳墓画像の研究
研究者所属(当時) | 資格 | 氏名 | |
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(代表者) | 本庄高等学院 | 教諭 | 三崎 良章 |
- 研究成果概要
- 中国甘粛省で出土した2~5世紀の墳墓画像の研究、それをもとにした当該時代の河西地域社会の研究は、2000年代初めから着実に進展してきた。本研究代表者も近年、高台県の苦水口1号墓や地埂坡4号墓等の画像を中心に、墳墓画像の研究を進めてきた。そうしたなかで高台県の西隣の酒泉市粛州区で2001年に発掘された「小土山墓」については、公表されている資料が限定的であることもあり、西涼主李暠の墳墓と理解されることが多いものの、それに対する疑問も呈され、当該時代研究に充分には活用されない状態が続いている。そこで本研究では、現在公開されている断片的な情報を収集・整理して同墓利用の基盤をつくるとともに、同墓の魏晋十六国時代の河西における位置を検討した。まず「小土山墓」では、照壁に力士の小型正方形の彫像磚が4種8点あり、また小型正方形画像磚は8点であるが、その内5点の内容は青龍・白虎・朱雀・玄武・白鹿であること、墓内には大型画像磚が10点あったがそのうち画像が確認できるのは5点で、いずれも人物像であることが明らかになった。そうした画像の内容は、照壁は4世紀中期以前の酒泉・嘉峪関・高台の壁画墓と共通するが、墓内の画像はそれらとの相違が大きく、磚の形態としては敦煌祁家湾墓群のそれとの共通性が指摘できた。また墓主は西涼政権の相当の地位にあった人物と推定できること、築造時期は405~420年の間の可能性が高いことも明らかになった。そうしたことを総合すると、酒泉・嘉峪関・高台では4世紀後半に非漢人政権である前秦の勢力拡大により壁画墓は衰退したが、5世紀初に漢人政権である西涼が敦煌から酒泉に遷都したことにより、敦煌で継続していた墳墓画像文化が酒泉に移植され、それが壁画墓である「小土山墓」の築造につながったという見通しを得ることができた。