表題番号:2022C-321 日付:2023/03/02
研究課題明治期における「仏教公認」論とフランスのコンコルダート制度との関係について―藤島了穏を中心に―
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 政治経済学術院 政治経済学部 准教授 マルティ・オロバル ベルナット
研究成果概要

コンコルダート制度とは、1801715日から1905129日までフランスにおいて実施されていた宗教制度である。元々は1801年に当時のフランスの統領ナポレオン・ボナパルトとローマ教皇が結んだ「政教条約(コンコルダート)」から誕生した。そして、翌1802年に、他の宗派、ルター派とカルヴァン派にこの制度の適用範囲を拡大し、1807年には他の宗教、ユダヤ教も承認された。公認された宗教は政府の援助を受けていた。1889年に『大日本帝国憲法』が発布され、仏教界を混乱させた。中でも、第28条によって信教の自由が認められ、キリスト教が正式に容認されたことと、条約改正に伴う外国人の内地雑居とキリスト教の自由伝道、流入が大きな問題とされた。それに対処するため、
仏教界は仏教に対する特別な扱いを求めた。つまり、正に公認教運動が展開したのである。この公認教制度の提案によって仏教界は「キリスト教問題」を解決しようとした。つまり、日本特有の宗教である神道と日本仏教のみを「公認教」として認め、政府の援助を受ける一方、キリスト教に対する信教の自由を認めながら、「非公認教」と定め、その拡大を制限するよう求めたのである。この仏教公認教運動の出発点とされているのは18899月に井上円了が刊行した『日本政教論』である。円了は1888年に初めて米欧を訪れ、その旅から帰国した後にこの著作を上梓した。しかし、円了の「公認教」論の形成の事情、他学者が円了に与えた影響等に関してはほとんど研究が行われていない。中でも渡仏した先で円了と一時期行動を共にした本願寺派の僧侶、藤島了穏が円了に及ぼした影響について指摘・研究がされていない。藤島は1883年から1889年にかけてフランスに留学し、フランスで哲学及び政教関係を研究したにもかかわらず、全く注目されていない。まだ暫定的な結論しか出ていないが、明治の仏教系雑誌・新聞で最初の調査を行った結果、円了がフランスに行った時に彼の面倒を見たり、案内したりしていた藤島がその頃既に政教関係の研究を始めていたことを示す証明する資料を見つけた。例えば、『令知会雑誌』第62号(1889523日)に掲載された、「在仏国藤島了穏氏の書簡(抄出)」を見ると、「客冬以来専ら政教関係」(27頁)を研究していると記されている。ともかく、この運動をリードしていた円了は仏教界で広く受け入れられ、18901月に仏教界が一丸となって政府に建白書を渡すという計画を立てたが、政府による説得を受け、建白書の提出は見送られてしまった。しかし、1899年の条約改正交渉の結果、内地雑居が実施されることになっていたことを懸念していた仏教界は1898-99年に公認教運動を再開した。その際、改めて積極的に参加した井上円了、藤島了穏の活動がほとんど研究されていないので、それも研究テーマにする予定である。そして、この運動に参加した、他の僧侶が唱えた理論、例えば天台宗の村田寂順、日蓮宗本成寺派の古谷日新、大内青巒等の論文も調べたい