| 研究者所属(当時) | 資格 | 氏名 | |
|---|---|---|---|
| (代表者) | 社会科学総合学術院 社会科学部 | 助手 | 矢野 真太郎 |
- 研究成果概要
本研究は、日本側の外務省記録、陸軍関係史料、台湾国史館に所蔵された蔣中正総統文物、日中双方のメディア資料を用いて、盧溝橋事件後に日中間で「経済提携」がどのように議論されたのかを明らかにした。
日中戦争勃発後、日中「経済提携」は日本による和平工作のなかで言及され続けていた。日本陸軍では以前から石原莞爾や池田純久が「経済提携」を唱えており、「不拡大派」として事変の終結を目指していた。船津工作は外務省を中心に進められたが、そこで検討された和平条件は、漸進的な華北分離という性格がありつつも、中国側の要望を受け入れる条件も含まれており、盧溝橋事件以前の外交との連続性が見られる。船津工作の失敗後、和平条件は次第に中国側への要求という側面を強めていき、経済提携の内容も際限なく拡大していく。中国側のなかでは、国民政府「知日派」の呉鼎昌らが日本側への譲歩を唱えており、「互恵かつ第三国の利益を妨害しない」という原則の下で「経済提携」を承認することを主著下。しかしトラウトマン工作を進めるなかで、日本側は経済提携を資源獲得の手段として用いるようになり、和平の実現は絶望的になった。メディア上では10月ごろから、改めて経済提携が論じされるようになるが、天津の日本人商工業者を中心として華北の新政権への期待が高まっていた。1938年初頭、華北の新政権を相手に提携を進めていくことが定まると、経済提携論も具体性を帯びていく。しかし、その発想は中国を資源の供給地と見なす「農業中国・工業日本」にとどまっており、戦前に蓄積されていた日中間の議論の成果が完全に葬り去られてしまった。占領地では対日協力を選んだ人々も「経済提携」を論じており、基本的には「経済提携」を賛美する内容ではあるものの、中国を原料国と見なす日本側の政策には批判が加えられており、「経済提携」は対日協力者からも受け入れられるものではなくなっていた。