表題番号:2014K-6053 日付:2015/03/28
研究課題エリザベス朝演劇の翻訳:現代英語訳、和訳、字幕翻訳、吹替翻訳に見る新たな受容の可能性
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 文化構想学部 助手 梅宮 悠
研究成果概要

 1884年に坪内逍遥が『ジュリアス・シーザー』(Julius Caesar)を『自由太刀余波鋭蜂』と訳して以来、日本におけるシェイクスピア翻訳はその勢いを衰えさせることなく、今日に至るまで、実に数多くの翻訳本として世に刊行され続けている。逍遥ではなく、1913年に森鴎外が林太郎の名前で最初に仕上げた『マクベス』(Macbeth)も、翻訳史の100周年を迎えた2013年に20篇目の翻訳が吉田秀生によって出版された。

 本研究は『マクベス』の物語の中で、重要な意味合いを持っていると度々論じられる魔女の呼称に焦点を絞り、原本から20種類の翻訳の比較を行った。『マクベス』の唯一の17世紀から伝わる版本となる第一二つ折り本を詳細に見ると、魔女を直接的に意味する‘Witch’という単語は本文中に2回、ト書きに6回と思いの外に少ないことがわかる。他に魔女を暗示する‘beldams’‘fiend’といった呼称も登場するが、その回数はそれぞれ1回ずつとなっており、代わりに最も頻度の多かったものは代名詞の類であった。

 日本語訳の方を見渡すと、魔女という名詞の利用に制限を感じるものは1964年の小津二郎以前の翻訳者となるだろう。登場人物の一覧を見ても、小津に続いた13名は皆「魔女」と名付けているのだ。一方、小津以前に「魔女」を呼称として使った人物は鴎外に限られ、他の者は「妖巫」、「妖婆」、「妖女」といった名詞を利用していた。これには1964年よりも前の時代にあって、西洋的なイメージを持った魔女が日本文化に定着しておらず、日本古来の妖や巫女といった語が適切な訳語との判断が関係していると推察された。その状況下で最初に登場した鴎外訳が「魔女」としている点は、逆説的に鴎外による単語の紹介とも捉えられる。

 しかし、翻訳の見地においてさらに注目されるものは、逍遥による訳語で、彼が唯一用いた「妖巫」は、場面によって「ようふ」、または「ウイツチ」と振り仮名が付されている。これは逍遥が実践した漢字に別個の読み仮名を追加する(「清美」と書き「きれい」、「醜穢」と書き「きたない」など)手法に象徴され、本来の読みに漢字の持つ象徴的イメージを合併させていると解された。

 結論として、言語体系が異なる英語から日本語に翻訳するという作業工程の中で、翻訳史の創世記から比べて語彙が豊富になった現代であっても、かつての逍遥がしたように日本語の持つ様々な可能性を拡張させつつ、より原文のイメージもろともに転化できる訳語を探るべきとした。