表題番号:2013B-049 日付:2014/02/28
研究課題中国仏教経典に占める儒教起源語彙の計量学的研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 教授 渡邉 義浩
研究成果概要
魏晉南北朝は、漢で一尊されていた儒教に対して、様々な文化に価値が求められていった時代である。曹操の宣揚により価値を見い出された文学は、『陳書』巻三十四 文学の論では、「人倫の基づく所」とされ、「君子が衆庶に異なる」所以と理解されるに至る。また、曹魏の何晏が創出した玄学は、劉宋で四学館の中に玄学館が置かれたように、貴族の教養として公認される。さらに、裴松之の三国志注により、史料批判という史学独自の方法論を確立した史学は、『隋書』経籍志に完成する四部分類では、「経・史・子・集」と経学に次ぐ地位を確立する。
一方、後漢末の五斗米道を起源とする道教は、北魏の太武帝により国教とされ、東晉より本格的に受容された仏教も、隋の文帝により国教とされる。仏舎利を天下に配布した日、文帝は、国子学に学生七十名を留めた以外、学校を廃止する。後漢「儒教国家」が成立して以来、儒教が国家の保護を失ったことは、これが最初である。仏教が儒教の最大の脅威であったことを理解できよう。
儒教は、文化の起源を異にする仏教の隆盛に対して、どのように向き合ったのであろうか。本研究は、南朝を代表する仏教保護者で、「皇帝大菩薩」と呼ばれた梁の武帝の時に著された、皇侃の『論語義疏』に見える儒教と仏教のせめぎあいを明らかにするものである。
皇侃は、仏教信者が『観音経』を唱えるように、『孝経』を唱えること日ごとに二十回であったという(『梁書』巻四十八 儒林 皇侃伝)。『孝経』を宗教経典とする儒教信者であったと考えてよい。それでも、梁の武帝が尊重する平等という概念を利用して『論語義疏』を解釈した。ただし、それは一ヵ所だけであった。人間の本質を論ずる性説については、宿命論的な性三品説を取り、生まれにより定まる貴族制を正統化した。凡聖が一切皆平等であり差別がないという、武帝の理想に逆行する思想と言えよう。
皇侃の『論語義疏』には、平等無差別を説く仏教を表面的に受容する柔軟性とともに、それでも本質的な人間性の規定を揺るがさない儒教の強靱性を見ることができる。仏教に激突されてもなお儒教は、自らを見失うことはなかったのである。