表題番号:2013B-040 日付:2014/03/10
研究課題新出楚簡による楚王故事の研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 教授 工藤 元男
研究成果概要
近年、楚文化圏から出土する戦国楚簡の中に、楚王の周辺にいて上書などを受け継ぐ者として「視日」が登場する。視日の実態をめぐって学界では議論が多く、定説はなく、范常喜氏の整理によると次の如くである。第一は、視日を「見日」と隷定していた初期段階のもので、これを代名詞の一種、もしくは尊称とする説である。これは包山楚簡の整理者、陳煒湛、李零、賈継東、陳偉、譚歩雲の各氏を代表とし、その中でさらに左尹の代名詞、廷官の尊称、楚王の尊称等の諸説に分かれている。第二は、視日と隷定された段階以後のもので、これを官名の一種とする説である。これは裘錫圭、滕壬生、黄錫全、李零の各氏を代表とし、細部でさらに諸説に分かれる。このような整理をふまえて、范常喜氏自身は視日を楚国人が訴訟事件を審理するときの、その主要な責任者の通称、現在の裁判長に相当し、固定した官名ではない、と主張してる。
たしかに、包山楚簡などの「司法簡」をみてみると、楚国の視日が訴状を受け取り、これを楚王に上呈し、審理の責任者に対して迅速な判決を命ずるなど、裁判に深く関与する存在であったことが看取される。また「司法簡」ではないが、上博楚簡「昭王毀室」篇に登場する視日は、春秋末の楚の昭王に対して上程された訴状を受理する者と理解される。しかし、これらの例から、視日がある定まった特定の官名であるとはいえないであろう。それは「昭王毀室」篇の「卜+辶令尹陳眚は視日たり」という表現からも読み取れよう。陳眚の官名は「卜+辶令尹」であり、その彼がたまたま視日であったときの故事が「昭王毀室」篇の内容だからである。
そこで目を転じて、後漢の例であるが、『後漢書』王符列伝引『潜夫論』愛日篇所載の明帝故事によると、公車では凶日である反支日の章奏を受け附けなかったので、明帝はその陋習を除去させたという。この後漢の公車が戦国楚国の視日の一種の後身と理解される。戦国楚の視日が「視日」であるゆえんは、公車のように、(当直の者が)楚王への上奏(必ずしも訴状だけでなく、上奏文全般)を良日に取り次いだ当時の習俗を反映するものと思われる。こ視日に関する成果の一端は、「具注曆の淵源―「日書」・「視日」・「質日」の間―」(『東洋史研究』第72巻第2号、pp.36-68、2013年9月)で議論した。