表題番号:2013B-025 日付:2014/04/11
研究課題律令天皇制の総合的研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 法学学術院 特任教授 水林 彪
研究成果概要
1.研究助成金によって、まず、二つの研究を行った。一つは、古代天皇制に関する考古学的研究の成果をフォローすること、いま一つは、考古学研究の成果を参考にしつつ、私自身が、古墳の実地見学を実施することであった。文字使用がなかったヤマト王権ないし前方後円墳体制時代およびそれ以前の国制史研究ないし王権研究にあたっては、文献史料研究だけには絶対的な限界があり、私自身も、考古学研究の成果から多くのものを学ばねばならないという考えから、そのような研究に着手した。
 2.前方後円墳体制研究の第一人者である広瀬和雄氏の著作を読み進める中で、少なくとも5世紀中葉までの時代には、王権という表現が必ずしも適切ではないのではないか、という考えに到達した。というのも、広瀬氏によれば、5世紀中葉以前の「ヤマト王権」とは、実は、ヤマト地方に蟠踞していた複数の有力豪族の連合体であったからである。この連合体が、列島全体の盟主的な地位にあったということになる。
 地域の有力豪族の連合体は、王権とは概念化できない。王とは、王臣関係という異質な身分的地位にあるものの支配服属関係にほかならないからである。地域の有力豪族の連合体を、日本史の史料用語を用いて表現するならば、時代は大きくことなるが、中世の「一揆」から借用し、「ヤマト王権」ではなく、「古代ヤマト一揆」ということになろう。
 3.広瀬和雄氏の「ヤマト王権」研究から、以上のような示唆を受けながら、2013年9月に、かねてより関心をよせていた出雲地方の古墳の実地見学を行った。この実地見学において、1世紀から3世紀中葉以前までの時期に、現島根県を中心に、西は広島県、東は北陸地方に至る間での地域に、「四隅突出型古墳」とよばれる独特の形状を有する古墳が点在している姿を目の当たりにすることができた。この事実から、一般には、「ヤマト王権」時代が開始される以前に、出雲地方を中心に、「出雲王権」が存在したというようなことが言われるのであるが、私は、これについても、「王権」とは言い難く、むしろ、「四隅突出型古墳」に葬られるクラスの有力土豪の連合体秩序、すなわち、「古代出雲一揆」が存在した、と表現すべきであると考えるにいたった。
 4.以上要するに、本研究を通じて、私は、5世紀中葉以前の列島の国制を、「王権的秩序」ではなく、「一揆的秩序」として理解すべきではないか、という見通しを得るにいたった。いわゆる「ヤマト王権」(「前方後円墳体制」)が成立するとされる3世紀中葉より以前の時期については、「古代地域一揆割拠体制」、いわゆる「ヤマト王権」(「前方後円墳体制」)は「古代ヤマト一揆支配体制」とでも表現するのが適当であろうか。
 5.今後の研究課題は、(1)出雲地方について実見することのできた古代一揆と同様のものを、他の地方についても確認できるかどうか、実地見学を続けること、(2)5世紀末以降の王権の形成(雄略天皇を画期とする)、とくに、律令天皇王権の形成とともに、古代一揆体制はどのように変容せしめられたのかを検証する研究を行うこと、(3)中世後期に各地に姿をあらわす在地領主の一揆体制と上記古代一揆体制との連続と断絶について考えてみること、などである。古代と中世の一揆の間に何らかの継承関係が仮に認められるとするならば、わが国の国制史の叙述の仕方は、これまでのものとは大きく異なるものとなろう。是非とも検証しなければならない仮説であると考える。