表題番号:2013A-831 日付:2014/02/28
研究課題何晏『論語集解』との比較から見た鄭玄『論語註』の位相
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 教授 渡邉 義浩
研究成果概要
漢を代表する経学者である鄭玄の『論語注』は、宋代には散佚した。その後、他本からの輯佚が試みられ、さらに、一九六九年に吐魯番のアスターナ三六三号墓より出土した「卜天寿本」など、唐代の抄本も発見されている。これらを合わせると、約八七〇条から成る鄭注論語の六〇%以上が判明したことになる。
これに対して、曹魏の何晏・孫邕・鄭仲・曹羲・荀顗の共編に成る『論語集解』は、孔安国など七名の注を取捨選択し、何晏の解釈を加えたものである。『論語集解』は、宋廖氏世綵堂本(元盱郡覆刊)が完存するほか、敦煌・吐魯番より出土した唐代抄本、日本の室町時代の写本、正平本ほか日本伝承の版本など多くの本が残る。
鄭玄ではなく王肅の経学が尊重された南朝においては、鄭玄の『論語注』は低調であり、鄭玄の経学が主流であった北朝では鄭玄の『論語注』だけが学官に立てられた。隋までは、両者が学官に立てられ、民間では盛んであったはずの鄭玄の『論語注』は、なぜ散佚したのであろうか。
鄭玄の『論語注』が亡び、『論語集解』が伝存した外的要因は、『論語集解』が、皇侃の『論語義疏』を経て、邢昺の『論語注疏』へと受け継がれたこと、および朱子の『論語集注』以降、それ以前の本が顧みられなくなったことに求められる。それを踏まえた上で、本稿は、鄭玄『論語注』が選択されなかった内的要因をその特徴に探るものである。
鄭玄『論語注』が後世に継承されず、何晏『論語集解』が選ばれた理由はどこにあるのだろうか。鄭玄『論語注』は、鄭玄経学の一環としての『論語』解釈であるため、鄭玄学を修めるための基礎が身につく、という利点を持つ。したがって、鄭玄学が隆盛した北朝では、鄭玄の『論語注』だけに学官が立てられた。また、その解釈の学問的価値は、義疏学に引かれる『論語』の解釈が、すべて鄭玄注であることに端的に表れている。経学として『論語』を修めるのであれば、鄭玄『論語注』の方が優れている。
これに対して、何晏『論語集解』は、鄭玄『論語注』の持つ経学的な広がりを削除しているため、『論語』を『論語』の中だけで学ぶことができる。また、儒教のみならず、玄学にも広がりを持つ解釈であるため、玄学はもとより仏教との親和性が高い。皇侃の『論語義疏』が『論語集解』を底本とした理由である。こうした『論語集解』の玄学的「兼」の解釈は、三教融合を目指す唐の文化風潮に適合していた。
こうした両者の利点に、唐において次第に『論語集解』が優越性を持っていった理由を求めることができる。それに加えて、鄭玄『論語注』が散佚した最大の理由は、人が生涯のうちに修めていく学問体系に占める『論語』の位置に求めることができる。『論語』は、童蒙の書であった。鄭玄学が、学問のすべてでは無くなっていた唐の時代に、鄭玄学の粋を集めた『論語』の解釈を子供に強要することは大きな意味を持たなくなっていたのである。