表題番号:2013A-827 日付:2014/04/04
研究課題南北朝~室町期における荘園経営と在地動向―備中国新見荘を中心に―
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 助手 似鳥 雄一
研究成果概要
 近年、室町期を荘園制にとっての解体期とみなすのではなく、独自のシステムが構築された一時代として積極的な意義を認める「室町期荘園制」をめぐる議論が展開されている。その素材として、数多くの史料が残されている東寺領荘園は極めて重要な位置を占めるが、これまで検討の俎上に載せられてきた荘園には大きな共通する問題点がある。それは鎌倉~南北朝期の下地中分によって領家方と地頭方に分割されたが、史料的には大部分を領家方である東寺側に依存しており、地頭方の史料には恵まれないという点である。例えば備中国新見荘でも、下地中分以降に関わる先行研究は領家方に大きくかたより、地頭方については史料上の制約があるとはいえ十分な検討がなされたとは言い難い状況にある。
 そこで本研究では、従来注目されなかった『蔭凉軒日録』の記事などを用いて、室町期における新見荘地頭職の伝領過程を通覧し、あわせて鎌倉期以来の地頭の系譜を引く国人の新見氏についてその動向を追究した。並行して領家方の状況についても適宜論及し、地頭方との関係性を明らかにすることで、一つの室町期荘園として総体的な評価を試みた。その結果、以下のような成果を得た。
 南北朝期には新見氏・多治部氏といった地頭方の支配者が領家方も抑えるという状況が続いたが、それは室町初期にも引き継がれ、地頭方から領家方の代官を出すという、いわば下地中分と地頭請の二重構造が現れた。それを支えたのは新見氏の持つ国人同士のネットワークであり、後ろ盾となったのが足利義満とその側室である西御所高橋殿であった。
 やがて義満は死去し、地頭方・領家方のいずれにも大きな情勢の変化がもたらされた。足利義持は生母慶子の供養のため、西御所から地頭職をとりあげ、相国寺の季瓊真蘂がのちに住持を務める禅仏寺に地頭職を寄進した。これはかつて権勢をふるった義満側近層に対する揺り戻しの一環と理解できる。また一方の領家方では地頭請が終わり、細川京兆家被官の安富氏へと代官が改替された。
 その後、地頭方では細川典厩家被官となった新見氏と相国寺との間で地頭職の争奪が繰り返され、政変の勃発=季瓊の失脚がその契機となった。応仁の乱後には新見氏が地頭方代官となり、相国寺との間に友好関係が築かれた。領家方では安富氏の代官請から東寺の直務に移行すると、細川氏の口入により新見氏が領家方代官への補任を求めた。応仁の乱が起こると東寺は不知行に陥るが、その状況を終わらせたのは京兆家による代官請の成立であった。
 本研究の内容は以上であるが、このうち以下の二点を強調しておく。一点目は、地頭方の動向は室町殿の交替や政変の勃発など幕府の中央政局と密接に連動していたことであり、国人新見氏の在京活動によって地頭職が室町殿の周辺に持ち込まれたものと考えられる。二点目は、細川氏の中でも強い連携を持つ京兆家・典厩家の二家が、それぞれ領家方・地頭方に対して影響力を行使するという分掌体制ができたことであり、このベースとなったのも常に領家方・地頭方をまたいで活動し、典厩家のみならず京兆家にも通じている新見氏の存在であったといえる。
 すなわち細川氏や国人たち武家勢力は、地頭方だけでなく領家方も狙うという姿勢を一貫してとり続けた。下地中分がなされたといっても、決して彼らは領家方と地頭方を別個の荘園とはみなさなかった。彼らを媒介にして領家方は地頭方から影響を受け続けたのである。そして新見荘は、同族内の結束の強さを活かした細川氏が支配に関与することで、守護在京を基盤とする室町期荘園制の枠組みが最も長く命脈を保った特徴的な事例として位置付けることができるのである。