表題番号:2013A-811 日付:2014/04/10
研究課題「記憶」というコンセプトの文学研究への応用についての批判的考察
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 法学学術院 専任講師 岡山 具隆
研究成果概要
本研究は、ギュンター・グラスの小説を「集合的記憶のメディアとしての文学の可能性」という観点から論じる大規模な論文の理論的土台を得るために始められたものである。ドイツにおいては90年代以降ヤン・アスマン、アライダ・アスマンの「文化的記憶」概念が、文化学における一つの主導概念となっており、とりわけナチズムの記憶をテーマにした小説に関する先行研究においてはほぼ決まって援用されている。その場合、「文化的記憶」という概念は往々にして無反省に考察に組み込まれており、規範的性格の強いこの概念を使用することで、実際にはさまざまな記憶が共存・競合している状況が忘れられてしまう、あるいは見えにくくなっていることに対してはあまり目が向けられていない印象を受ける。近年の、とりわけドイツにおけるナチズムの記憶をテーマとした研究はさまざまな記憶の概念をいわば一方的に受容してきたが、今後文学研究の側から記憶研究に対して何らかの貢献ができるとすれば、それは例えば、そうした概念化に伴う問題点に対して、すなちわ、たとえばそうした概念化によって排除されてしまう記憶が存在することに、文学作品の分析を通して目を向けさせることにあるのではないか。
 その具体的な分析例として、ギュンター・グラスの自伝的小説『グリムの言葉』(2010)について考察した。この作品ではグラス自身の60年代から70年代にかけての政治活動が中心におかれているが、その自らの過去に、グリム兄弟の伝記、そしてグリム兄弟によって始められたドイツ語辞典編纂の過程が重ねあわされる形で語られていく。グリム兄弟によるドイツ語辞典編纂の開始時期は、三月革命前のまさに民主的統一国家に向けた動きが活発になる時期と一致する。辞書がようやく完成するのはドイツが東西に分断されていた1961年なので、グリムのドイツ語辞典編纂の一大プロジェクトは、そのまま統一国家としてのありようを模索し続けたドイツの歴史と重なる。考察においては、小説にみられる特有の語りの構造に注目した。語り手が自らの記憶、あるいはドイツの歴史について語る際に、疑問をぶつけたり、あえて断定を避けるなどして常に自らの語りの相対化を図っていく語りのあり方は、過去に関してまだ語られていない部分、その隙間を我々読者に意識させ、歴史というものが、あくまで可能性としてしか提示できないものであることを認識させた上で、その隙間を自らの知識や想像力で埋めていき、開かれた形で過去と向き合うことを可能にしていることを明らかにした。
 今後も記憶概念に関する理論的研究の分析と、個別の文学作品(とりわけグラスの作品)における記憶の問題に関する具体的考察との間を行ったり来たりする形でさらに本研究を深めていきたい。