表題番号:2013A-6443 日付:2014/04/15
研究課題シメオン・ポーロツキイとウクライナ文化―西方ロシアとモスクワにおける詩篇歌流行の原因について
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 国際学術院 教授 諸星 和夫
研究成果概要
本研究では17世紀のロシア詩人シメオン・ポーロツキイの最晩年の作品のひとつ『韻文詩篇』(1680)をめぐって、作者自身がその序文で挙げている作品成立の動機のひとつとなった西方ロシアおよびモスクワにおけるポーランド語詩篇歌流行の原因を探ることを目的とした。研究は当初2013年4月からの開始を予定していたが、助成費の交付決定が予想したよりも大幅に遅れたことにより、この間、着手の目途が立たず、予め策定されていた同月からの研究プランにも影響した。最初にこの点を本研究の途上で生じた軌道修正上の明確な根拠として確認しておきたい。改めて進め方を見直した結果、すでに4月から開始していた関連研究たるシメオン・ポーロツキイのモスクワ上京後の活動を追うための作業を続行するほかはなかった。とはいえ、この作業自体は本研究の当初のテーマたる「シメオン・ポーロツキイとウクライナ文化」をむしろ全体的に把握することにつながり、結果的にその一環を成す詩篇歌流行の原因を探るためのさらなる研究に裨益し得たと信じる。それは同年秋までに纏められたこの研究が「越境者の眼差しで― ロシアの近代化をめぐるS.ポーロツキイの創作と戦略について」と題され、シメオン・ポーロツキイの後半生の活動におけるウクライナを含む西方ロシアの影響について検討することを目的としているからである。筆者が本稿で明らかにしたのは、ひとことで言えば、キエフやヴィリニュスで学問上の鍛錬を重ねたシメオンが、その身に負った教養基盤を活用することで、古いモスクワの精神風土を変容させ、本格的にはピョートル1世の出現を待って実現する、西欧化への環境整備に貢献したその偉大な先駆者としての役割である。これに関連して注目に値するのは、歴史的に西方ロシアから発してその延長線上の北東部分に国家を形成したモスクワ・ルーシ(=モスコヴィア)が、この度も再び西方ロシアの指導の下に西欧化という新たな地平に舵を切るという興味深い事実である。とはいえ、この際はっきり押さえておかなければならないのは、やがてロシア帝国として脱皮する新興ロシア国家は、その成長過程で単に西方ロシアを模したのではなく、したたかにもそれを新たな飛躍のための栄養分として摂取したに過ぎなかったことである。この意味で、キエフを中核とする17世紀の西方ロシア文化は、台頭しつつあった北東ロシア国家の中で鮮やかな転生を果たしたとも言える。一例を引けば、あのジェチポスポリータ(ポーランド=リトアニア連合国家)に固有の表現とも言える「サルマチア」は、シメオン・ポーロツキイの代表的な作品の中では、ダイナミックな変容が期待される「ロシアのサルマチア」と読み換えられている。以上の作業を経ることにより、当初に予定した詩篇歌流行の原因を探る試みも、同主題群の考察の一環を構成することが改めて確認された。