表題番号:2013A-6197 日付:2014/04/12
研究課題日本における「科学技術」の問題性に関する哲学的視点からの研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 商学学術院 教授 八巻 和彦
研究成果概要
「日本における「科学技術」の問題性に関する哲学的視点からの研究」という研究課題を遂行した結果、概略、以下のような成果をあげることができた。
1.まず、研究方法として、「科学」と近代「科学的技術」の発祥地である西ヨーロッパにおける両概念の取り扱い方と我が国のそれとを比較することで、問題性を明瞭にするという方法をとった。この点については、2014年3月に本研究課題において交付された研究経費を使用してドイツに出張し、現地の研究者と討論することでこの方法の有用性が明らかになった。同時に、私自身の研究成果の一端を講演して彼らに示した。この出張によって私の研究は大いに深められた。
2.「科学技術」という、我が国において、今日、通常使用されている用語が、「科学と技術」という意味なのか、「科学的技術」という意味なのかが不明確であることを明らかにした。
3.このあいまいさの根源は、明治時代初期に欧米より近代科学と近代技術が移入された際に、当時の欧米における「科学的技術」の急速な発展の影響かで、本来は別のものである「自然科学」と「技術」とが一体のものであるように、当時の日本人の多くには受け取られ、その結果、大学においてもこの区別があいまいなままに教育と研究が進めらがちであったということである。
4.そこから生じる問題は、「技術」とは本来、社会における実用に供されるものとして存在している限り、「自然科学的正確性」よりも「実用的便宜性」が技術の実践に際して優先されることがまま存在するのであるが、それにも拘わらず、技術における実用的「見切り」の結果が「自然科学的正確性」であるかのように、一般社会に見せかけることが可能となることである。その結果、具体的技術のそれぞれが内包するあいまいさや危険性が隠ぺいされやすくなっているのである。
5.上記の典型的な例が、日本における原子力発電という技術である。今日、「安全神話」と批判的に称されている原子力発電推進側の長年にわたる主張ならびに宣伝活動は、上記の構造を利用したものである。
6.もう一点、明らかになったことは、日本人が自然を母とみなして、その母なる自然に対する「甘え」という態度が、「科学技術」を日本人が使用する際にも反映されやすいということである。
7.この自然に対する甘えは、日本人の伝統的な美意識の模範が自然そのものであること、ならびに日本人の伝統的な振る舞いに「甘え」が典型的であることから証明されうると考える。
8.伝統的な美意識の模範が自然そのものであることは、松尾芭蕉の『笈の小文』の一節が典型的に示している。また、日本人の伝統的な振る舞いに「甘え」が典型的であることは、心理分析学者である木村敏が『人と人の間』という著作で詳細に論じており、木村もこの「甘え」は自然との関係にも典型的に表れるとしている。
9.このような母なる自然に対する「甘え」の構造が、福島第一原子力発電所の東日本大地震に伴う巨大事故の原因として考えられるのである。まず、あの事故の直接的原因である原子炉の冷却不能という事態が、政府や東電の主張している通りに、襲来した津波による全電源喪失によるものであるのか、地震による振動による冷却系統の損傷によるものであるのかは、いまだ不明確ではある。もし津波によるものだとして、その際に襲来した津波の高さは、2000年代初頭に地震学者によってあの地域を襲う地震による津波の高さとして想定されていたものよりも低いものであり、さらに2009年に経産省の産総研の研究グループが、上記先行研究に基づく独自の計算によって明確に警告したものの範囲であって、決して原発関係者が事故直後にしきりに発言した「想定外」であったわけではない。それにもかかわらず、事前には防波堤工事を怠り、事故後には「想定外」を繰り返した原発関係者の態度の根底には、「母なる自然はそれほどひどいことなしないだろう」という「甘え」(楽観的見積もり)があったと言うべきであろう。
10.このような、日本における「科学技術」の問題性を解決するためには、以下のような方策が必要であると思われる。
 (1)科学と技術を理念の上で明確に切り分けて扱うという社会的態度を、とりわけ巨大技術を扱う関係者が身につけること。そして、その切り分けが明確であるかどうかの視点から、監督官庁が審査にあたること。
 (2)技術における日本的「甘え」を一切排除するという姿勢を、一技術者から企業、政府に至るまで、保持すること。技術における日本的「甘え」を一切排除するためには、すでに実用に供されているすべての技術についてもこの視点からの審査が監督官庁によってなされるべきである。さもないと、再びフクシマのような巨大事故が生じることになるであろう。