表題番号:2013A-6135 日付:2014/04/08
研究課題村上春樹文学における「正しさ」の意味に関する構造的研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 教育・総合科学学術院 教授 石原 千秋
研究成果概要
 「村上春樹文学における「正しさ」の意味に関する構造的研究」の目的は、村上春樹文学において特徴的な使われ方をしている「正しさ」という言葉をキーワードとして、村上春樹文学の(やや単純化して言えば)純文学的側面と通俗文学的側面との融合のしかたを分析し、村上春樹文学の独自性とその展開の全体像を明らかにするところにある。たとえば都甲幸治氏は座談会で、村上春樹は「保守的」で、「オーソドックスな核家族の形を結果的に反復し肯定している」(『文學界』2010・7)と言う。「正しい」という言葉に注目して村上春樹文学を分析すれば、この意見はかなり実証的に明らかにできるのである。
 ある時期までの村上春樹文学では、「正しい」という言葉は「その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわからない」(『ノルウェイの森』)という現れ方をする。「正しい」という言葉が、「僕」の(あるいはある登場人物の)多くはセックスに関わってアイデンティティの問題として、なおかつ「わからない」という否定形を伴って語られることがほとんどなのである。ところが、そうでない例がごく少数ある。おそらく最も頻度が高く「正しい」という言葉が使われている『国境の南、太陽の西』に1例、かなり頻度が高く使われている『スプートニクの恋人』に1例、「正しい」という言葉が「正しいことではなかった」という否定的な断言の形で、家庭を壊してはいけないという文脈の中で使われているのである。これは、都甲幸治氏の発言を裏付ける事例である。
 村上春樹文学では「僕」の性的なことに関しては何が「正しい」かは「わからない」が、家族や社会に関することについてはやや保守的な「正しい」基準があると言っていい。そこで、前者においては「僕って何?」風のアイデンティティに関する問いが倫理的な装いをもって繰り返され、それが村上春樹文学を特徴づけている。これは村上春樹文学を純文学のように見せている。しかしその一方で、既存の家族道徳を守るような「正しい」基準がある。これは村上春樹文学を通俗文学のように見せている。かなり早い時期から村上春樹は二人いたようだ。一人は、倫理的な問いを繰り返してアイデンティティを確認することを試みる村上春樹。もう一人は、世間の道徳に同調する村上春樹。前者は純文学風の相貌を見せ、後者は娯楽小説風の相貌を見せる。しかし、村上春樹の小説はどちらの問いに答えを出すのにふさわしい構成を持っていない。したがって、どちらの問いも宙づりになる。小説は答えを出すものでもないから、どちらつかずの構成が村上春樹の小説の魅力だったと言っていい。
 『1Q84』では、「正しい」という言葉はほとんど「正義」の意味で使われている。それが、この小説を娯楽作品に見せている。では、新作長編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』においてはどうだろうか。この小説には(否定形も含めて)「正しい」という言葉が全部で6回使われている。そのうち異性に関して使われているのは2回だが、いずれもセックスとは関係がない。そして、残りの4回は特にこれといった意味を持たない。つまり、アイデンティティの問いとも家族の問いとも結びついていない。それでいて、多崎つくるは自分探しの旅に出る。これはある意味で村上春樹の小説では新境地と言ってもいいかもしれない。多くの読者が、この小説にとまどった理由は、こういうところにもあると思われる。