表題番号:2013A-6114 日付:2014/03/29
研究課題シェイクスピアの後期の劇における虚構と政治性―『シンベリン』を中心に―
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 教授 冬木 ひろみ
研究成果概要
 『シンベリン』は、シェイクスピアのロマンス劇というジャンルに入れることが多いが、初出である1623年のThe First Folioでは全集の一番後に置かれ、しかもその分類は「悲劇」であった。『シンベリン』は、ジャンルも文体も含め、実際複雑で技巧的であることは否めないし、多様な視点を許容しうる劇でもある。ただ、現在の批評の方向としては政治的・歴史的なアプローチが多いのだが、それに則ってテクストを読んでゆくと、かなりの違和感とテクスト自体との齟齬が出てくる。この劇の政治性・同時代性・歴史の表象が大きいのは確かであるが、もう一つの内包する大きな要素であるロマンス、あるいは神話的な下部構造が複雑に絡み、しかも調和することなく複雑さや不均衡がそのまま止揚されている。つまり、ロマンスという中世的な概念も含む枠の中に、政治的歴史劇を入れこんだところに、この劇の一番の矛盾律(paradox)があると言える。以下、この劇特有のparadoxの表象を検証してみたい。
 広く見れば、シェイクスピアの劇全体にはparadoxの発想があると言えるし、Macbethの’fair is foul, and foul is fair’はその典型ではあるが、Elizabeth Iの時代とは明らかに異なる時代精神が、後期の劇を書いた頃のシェイクスピアの筆により大きな影響を与えていることは重視してよいと思われる。無論、同時代のtopicalityと劇との関連の研究はこれまでも行われてきたことであるが、本研究がさらに注目したいのは、王権への賛美や追従以上に、この劇が見えない形での王権に対する矛盾の提起をしているのではないかということである。
 当時の国王James I自身には多くの出版物、あるいは記録された言説があり、書かれた言葉に対するJames自身の強い思いが読み取れる。その点をひとつの手がかりとして『シンベリン』のテクストを詳細に読み込んでみると、幾つかの場面で言葉への疑念、およびparadoxと考えられる言説が見えてくる。まず、冒頭で紳士たちが交わす会話に含まれるKings/King’/Kingというテクスト編纂上の異字にも国王Jamesを指す可能性を含むtopicalな問題が含まれる。また、ブリテンをめぐっての人物たちの言説からは、通常の歴史劇にあるようなプロパガンダも見えてくるが、その一方、悪事をなす王妃(特に女性という存在)に親ブリテン(イングランド)言説をさせることで、その真意と言葉の価値を曖昧にしてしまう。さらに、ブリテンの国土をローマと併置することにより、当時の時事的な問題を含むと同時に、ブリテンにとってローマの存在は見本とすべき中心でもあり、一方主人公の一人であるPosthumusがローマ軍に入ってブリテンを攻撃するという点で、外でもあるというparadoxが現れてくる。さらにこのPosthumusのエピソードは、シェイクスピア後期の劇に現れる中世のロマンスを相対化し、その価値を両義的(paradox)にしているとも言える。
 最後の場面ですべてが明るみに出るプロセスはシェイクスピアの劇の中でも最も混沌として、解釈を困難にしている箇所であるが、paradoxという視点とtopicalな政治的状況と重ねて分析することにより、ここに現れているシェイクスピアのひとつの方向性が見えてくると考えられる。まず、ジュピターの神託の言葉が明確には解釈できないというこれまでの劇ではあり得ない状況は、前記したJames Iの言葉への執着、および王への信頼の矛盾を提起することにもなる。同時にそれを解釈する占い師の言葉自体が途中で変わり、曖昧になってしまうことにもparadoxがある。また、ヒロインInnogenの言葉が夫には信じてもらえず、最後の最後になって和解できることも異例である。悪事を重ねた王妃は寓話の枠の中の悪人として死ぬが、かつては親ブリテンを語っていた人物であることを考えると、妻を信頼していた国王であるシンベリンの立脚点は最後に揺らぎを見せ、彼の最後の言葉への信頼も相対化されることになる。
 こうして、ブリテンという国土、国王への敬意、言葉への信頼すべてが、最後の場面で表面上は回復し、国を担うべき新たな若い世代が発見される一方、その背後に書き込まれたシェイクスピアの筆は、国家の価値の相対化、および言葉自体の価値の矛盾を突くものであったと言えるのではないか。彼の属する劇団であるKing’s Menとして国王への賛辞を入れ込みながらも、表面上には見えにくい形で書き込まれたシェイクスピア独自のparadoxを含んだ言葉が、『シンベリン』をジャンル的にも曖昧で特異な劇にしていると考えられる。