表題番号:2013A-6102 日付:2014/04/01
研究課題新出土武義徐謂禮文書の基礎的研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 教授 近藤 一成
研究成果概要
 2005年6月、浙江省金華市武義県郊外の一基の南宋墓が盗掘され、事件を調査した公安は、盗掘品がほとんど売り捌れたなかで、一連の官文書のみが残っていることを確認した。2011年3月に写真を入手した武義県博物館は、早速その真偽の認定や盗掘人の供述に基づく現地の発掘調査を始め、もと浙江大学、現人民大学教授包偉民氏を中心とする研究会を立ち上げた。早くも2012年11月には全文の写真と移録文を掲載した報告書の刊行報告会が現地で開催された。その報告書『武義南宋徐謂禮文書』によると、
官文書とは、南宋後半の官僚であった徐謂禮の「錄白告身」「録白敕黄」「録白印紙」の三種類であった。2013年3月にはこの文書を課題とする最初の学会が北京の人民大学で開催され、海外からは唯一、私のゼミ出身で宋代官文書を研究対象の一つとする小林隆道PD(東洋文庫 当時)が出席、報告した。そのときの報告論文17本と報告書に掲載された包教授の概括論文を併せると、文書の解題的な基礎論考は出揃ったと思われる。そこで、この文書の「南宋官僚制度とその運用についての従来の研究に及ぼす影響」が次の段階の基礎的研究として浮かび上がってくる。本特定課題は、では、そのために今後どのような課題を設定し、それをどのような角度から分析すれば本文書の歴史的意義が明らかになるのかについて基礎的考察をおこなった。
 出土した三種の文書は、当時の官僚が常時携帯した公文書で、本人の官僚としての正式な身分を証明する皇帝・政府発行の辞令(告身)、実際に従事する職務〈差遣〉への任命状(敕黄)と、官僚としての経歴を記した履歴書(印紙)である。錄白とは、それらの写しを意味するが、役所に保存される原本とは別に公印も捺され本人に渡される副本で原本と同じ正式な公文書扱いである。これらのことは文献史料から知られていたことであるが、実物や形式の記載内容が残る告身と敕黄に対し、史料に用語として頻出する印紙(印紙暦子)は、それがどのような内容をもったものかは分からなかった。今回の出土文書は、徐謂禮が生前保持していた録白をさらにコピーして墓に入れたもので、写しとはいえ何が書かれているかを示す具体的な史料が初めて出てきたのである。本研究は、その印紙について考察した。
 印紙全80項目を一読すると、以下のことが分かる。印紙は官僚が最初の差遣を受けたときに吏部が発給する。その印紙原本は役所が保存し、各自はその写しである錄白印紙(白紙に移録の意か)を副本として携帯する。中央を含めた赴任先で着任や離任、職務遂行、勤務評価のための書類提出など官僚としての仕事はすべてもれなく書き込み、それを所属官庁に定期的に提出し、原本印紙に書き込む、と同時に錄白にも記載内容が事実であることの証明を受ける。これを批書といい、外任のときは所属の州が批書した。印紙は印紙暦子といい、年月ごとに記事が記され、記載事項が増加すれば新しい紙を粘添して、官僚生活が終わるまで書き続けた。
 実例に則して検討すると、例えば朱熹について次のような事情が明らかとなる。朱熹は、殿試の合格順位が低かったために3年間の自宅待機の後、紹興21年に左迪功郎の官位を受け福建路泉州同安県主簿に任命された。しかし泉州同安県に主簿として実際に赴任したのは23年の秋であった。やがてそこでの任期が終わった紹興26年の秋、『朱子年譜』は『語類』を引き、所属の泉州に赴き「候批書(批書をまつ)」と記す。この意味がよく分からなかったが、徐謂禮文書を参照すれば、主簿としての履歴を書いた錄白印紙を泉州官庁に提出し、その記載が誤りではないことを州から証明してもらい(批書)、同時に記録を原本に転載する作業を待っていたことだと理解できる。『語類』は、その待機期間に「客邸」で館人から『孟子』一冊を借りて読み、熟読することで『孟子』理解の手掛かりを初めて得たと記す。これは朱熹自身の言葉であるから、やがて『孟子集註』に結実する朱子学の『孟子』解釈の第一歩が紹興27年秋7月27歳の時に泉州であったことが明らかとなる。これ以外にも、『朱子年譜』の官僚としての朱熹に関係する記載事項を徐謂禮文書と対照することで、かれの取った行動や当時の具体的状況が明らかになる点が多々あると予想される。一つだけ追加すると、『朱子文集』巻22「申建寧府状一」「同二」「謝改官宮觀奏状」は、45歳になった淳熙元年、朱熹自ら望んだからであるが、27年に及ぶ長い官僚見習い的な地位である選人身分から、辞退しきれずに京官の宣教郎に改官されたときの建寧府と中央政府に宛てた申状と謝表である。その中に「望闕遥謝祗受訖」という文言があり、この具体的情況が今一つ分かりにくかった。ところが徐謂禮の録白印紙三「寶慶元年(1225)二月 日、進寶赦恩轉承事郎」は、武義県に居住する徐が、このとき赦恩によって承事郎の官位(録白告身二に収録)を得、その通知を受けて婺州(当時の金華)に赴き提出して批書を受けた印紙の録白であるが、その5行目から6行目に「望闕遥謝祗受訖」と書かれており、地方で告身を授与される官僚が、受領するときに遥か都の御所を拝して謝する動作を示すことと理解できる。外任の地方官が、どこで新しい告身を受領し、その際の一連の手続きがどのように行われたのかが、「徐謂禮文書」によって明らかになる。些細なことであるが、宋代官僚政治制度の具体的なイメージを喚起する上で貴重な史料となるのである。
 この他、伝記資料として重要な墓誌とともに、納められた墓から出土する、同じく伝記資料である壙記が墓誌とどのように区別されるかが曖昧であった。内容上、官歴に特化した壙記が印紙に基づき制作されたことなどを明らかにした。