表題番号:2013A-6012 日付:2014/04/10
研究課題昭和前期の日本における東アジア報道関係の組織と人脈
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 政治経済学術院 教授 土屋 礼子
研究成果概要
本研究の目的である、1920年代後半から1940年代までにおける日本の主要新聞社及び通信社における東アジア報道関係の組織、およびそこに所属した記者たちの動向については、取材報道組織として大陸各地の支局と連動していた部署の人員を、大正期から1930年代まで『日本新聞年鑑』などの名簿を用いてその推移を明らかにした。その結果、以下の点が明らかになった。一般に日本の新聞社では中国及び東アジア関係部署の地位は高くなく、外報部・外信部の片隅に据えられていた東アジア関係の記者と部局は、1920年代から1940年代にかつてなく注目され、拡大した。彼ら「支那通」と呼ばれた記者たちは、満州事変前までは「支那部」「支那課」に属していたが、事変以降はそれらは「東亜部」「東亜通信部」と名称を変更し、さらに新しい「支那通」第三世代というべき記者たちが増大した。彼らは共産主義の影響下にある中国の政治経済的な変化と将来の方向性を論じることが求められると同時に、排日運動と日本の中国侵略と格闘しなければならなかった。彼らは軍や外務省と情報や意見を交換するだけでなく、和平工作に参画することも要請された。ゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実もこの第三世代に属していたが、九州出身者と東亜同文書院卒業生が多い「支那通」記者の中では、岐阜県で生まれ台湾で育ち、東京帝大卒という異色の経歴だった。
 他方、新聞社のインテリジェンス機関というべき、毎日新聞社の「東亜調査会」(1929年創設)および朝日新聞社の「東亜問題調査会」(1934年創設)については、そのの活動は新聞紙面とは関係はないとされ、アジア関係の出版物を編集刊行するだけでなく、官僚や軍部、財界などの要人との懇談会や、政府への建議などが主要な活動であった。その最大のテーマは、日中関係の改善であり、汪兆銘による親日政権の樹立が最大の関心事であった。議会による民主主義不全の中で、政党政治を立て直すのではなく、議会も政党も飛び越えて、直接権力者たちに協力し、密着し自らの利益にも結びつけようとした。両調査会の出版物は戦後、占領軍によって没収され禁書の類となって顧みられず忘れられた。