表題番号:2013A-056 日付:2014/03/28
研究課題原子力発電所導入と日英原子力協定の変遷の研究-核燃料協定と保障措置を中心に-
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 社会科学総合学術院 教授 有馬 哲夫
研究成果概要
一九五七年年一一月、正力松太郎原子力委員会委員長がイギリスからコルダーホール型動力炉の輸入を決定した。これはアメリカから輸入すると厳しい秘密条項と保障措置が求められるので、これらの条件がゆるいイギリスから輸入することでこれらの条件をバイパスしようという意図があった。
正力と原子力委員になった石川一郎(前日本経済団体連合会会長)は、ウラニウムやプルトニウムを、アメリカから掣肘を受けることなく手に入れることで、日本が自由に原子力平和利用関連技術を開発できるようにしたかった。将来は日本企業が原子力発電所を輸出し、必要に迫られたたならば核兵器を製造できるようになることも視野に入れていた。   
しかし、同じ一九五七年、アメリカ主導で国際原子力機関(IAEA)が設立され、日本はアメリカの強い後押しを受けて指定理事国になった。このあと、アメリカは、国際原子力機関の加盟国は、原子力技術を軍事転用しないことを保障するために、国際原子力機関から保障措置を受けことを強く主張し、これを通した。
イギリスは当初、これに反発したが、単独で日本の原子力発電所に対し保障措置を行うことのコストとデメリットを考えるようになり、結局、国際原子力機関に保障措置を委ねることを受け入れた。
こうして、日英二国間の協定だった動力型原子炉の輸入は、核燃料の再処理とプルトニウムの保有に関しては、国際原子力機関のチェックを受けることになり、正力・石川の目論みは失敗に終わることになった。
一九六八年、日本最初の原子力発電所である東海発電所は、多くのトラブルに見舞われたあとで、六トンのプルトニウムとその他の核物質を産出したが、これに保障措置を行ったのは、輸出国イギリスではなく、国際原子力機関だった。
結局、日本はアメリカ主導の国際原子力機構のコントロールのもとに原子力発電を含む、原子力平和利用技術の研究・開発を進めていくことになる。
以上のことをイギリス公文書館(ロンドン)の原子力関連文書から明らかにした。