表題番号:2012B-032 日付:2013/04/03
研究課題楚簡よりみた楚王故事と"史実"の探求
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 教授 工藤 元男
研究成果概要
長江中流域から出土、もしくは盗掘されている戦国楚国の竹簡(楚簡)の中に、「視日」に関する記載が含まれるものについて検討した。「視日」の名の簡牘資料上の初見は、前漢武帝のいわゆる「元光元年暦譜」であるが、その篇題の固有名は「七年視日」である。この「視日」の名は文献史料でも確認することができ、『史記』巻48陳涉世家にみえる楚の項燕軍の周文について、如淳の注は「日時の吉凶、挙動の占いを視る」者としている。すると、暦譜の篇題が「視日」であることと、項燕軍の周文が「視日」であることの間にどのような関係があるのか、この問題を中心に検討した。
 そこで注目されるのが、包山楚簡の司法文書である。この資料は楚の懐王(在位、328-299B.C.)時代のものである。この中で「見日」は訴状を受け取る者として登場する。「視日」は上博楚簡にもみえている。年代は包山楚簡より少し後れ、戦国晩期である。その「昭王毀室」篇の内容は春秋時代末の楚の昭王(在位、515-489B.C.)に関する故事である。ここでも「視日」は告訴を受け付ける役割を果たしている。「視日」はさらに1992年、湖北省江陵県磚瓦廠370号戦国楚墓から出土した残簡にもみえる。年代は包山楚簡とほぼ同じであるが、ここでも「視日」の役割は同様である。しかしなぜ訴訟に関わる「視日」が楚簡の中に登場し、それが前漢初期の文献史料で占卜者としてみえるのであろうか。
 そこで范常喜氏の説が参考になる。氏はこの問題を次のように理解する。法が発生する以前の古代社会では神判が行われ、その中には古い巫術が含まれていた。楚国で「視日」はそのような巫の一種であり、原始神判時代の裁判官でもあった。しかしその後の社会発展につれて巫が審判に参与する機会は減少し、その職能はもとの定暦択吉を司る者に戻り、その名称だけが司法裁判の中に残存した、と。これを実証することは難しいが、概ね首肯される想定である。
 戦国楚国で司法にかかわっていた「視日」の役割は、後世においても継承されていたようである。『後漢書』王符列伝引『潜夫論』愛日篇の明帝故事によると、公車は「反支」日の上奏を受け付けず、明帝はこれを改めて「其の制を蠲いた」という。これより、当時「反支」日に上奏の受付を拒否するのは、宮廷の慣習などではなく、一つの制度だったことが分かる。そのため公車は「日を視る」必要があった。この公車の役割は、まさに戦国楚國の「視日」と共通する。これを「視日」と呼ぶのは、その任に当たる者が上訴を受けるとき「日の吉凶」を「視」たことに由来するのであろう。そのような“日を視る”役割を軍事において継承する者が秦末の周文であり、それと関連して「日を視る」ことに特化された曆譜が「七年視日」であり、さらに後漢初期の朝廷で実施されていた反支日の上奏の禁忌が、『潛夫論』愛日篇の明帝故事にみえるのである。