表題番号:2012A-947 日付:2013/04/05
研究課題井伏鱒二における<地方>表象の研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 助手 塩野 加織
研究成果概要
 本研究課題は、井伏鱒二の1940年代の著作における〈地方〉表象を分析し、その特性を明らかにするものである。ここでは特に、戦時中から敗戦後数年間の時期に集中して執筆・発表された井伏の農村作品群に着目し、それらがいかなる連関を持っていたのか、また、なぜ「農村」が題材として選択されたのかについて分析を行ない、この時期の井伏作品にみる〈地方〉の特質を検証していった。
 まず論文「レンゲ草の実」論では、1947年発表の農村作品が、当時盛んに議論されていた新しい表記制度改革に対する井伏自身の応答と参与のありようを示すものであったことを明らかにした。作中に描かれた〈地方〉は、戦後民主主義の象徴のようにして当時急速に普及していった新表記法の欺瞞的側面を照射し、そこに胚胎する単一的地方観を剔抉するものといえる。また当該作品には、この時期井伏が書き連ねていった他の農村作品と表現上相似する要素が多数見られることを踏まえてみると、〈地方〉表象は、敗戦後の情勢と井伏自身の表現とを取り結ぶ機能を担っていたと考えられる。この部分については今後さらに詳しく検討する予定である。
 続いて、こうした井伏鱒二の表現特徴を同時代状況との相関性から捉える手立てとして、当時の新表記制度改革をめぐる他の文学者たちの作品や言述を辿り、いくつかの事例にみる傾向や特徴について比較分析を行なった。とりわけ、井伏が参加していた同人誌では新表記反対の旗幟を鮮明していたこと、しかもそこでは賛否だけが問われがちで、表記が文学表現に及ぼす影響については見過ごされがちであったという特徴を明らかにした。その一方で、いわゆる大家たちは、掲載紙側との執筆交渉に表記の指定を盛り込んでいたこと等も数種の資料から明らかになった。このことを論証した論文は仏訳され、今年度内に発行される予定である。
 以上のように本研究課題では、井伏によって敗戦以後に描かれた〈地方〉表象が、表記制度改革に付与された〈地方〉観やそこに見出される欺瞞的なイデオロギーに対して強い批評性を持っていることが明らかにされた。またそれは、同時期の他作家の場合と比較した結果、井伏の特質として位置づけることができた。この成果を踏まえた上で今後は、戦前・戦中期にあたる1930年代へも視野を広げ、この時期に大きな展開と変貌を遂げていく日本の農民文学と井伏作品における〈地方〉表象との関係性について、さらに考察を重ねていきたい。