表題番号:2012A-897
日付:2013/03/23
研究課題「日清修好条規」の締結とその周辺-李鴻章の対日認識を手がかりにして-
研究者所属(当時) | 資格 | 氏名 | |
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(代表者) | 社会科学総合学術院 | 助手 | 白 春岩 |
- 研究成果概要
- 本研究は「日清修好条規」締結前後の日中関係、とりわけ直隷総督北洋大臣李鴻章の対日認識・対日政策を考察してきた。
[課題設定]
①李鴻章はどのような対日観を持ち、明治初期の日中関係にどのように臨んだのか。
②李鴻章の対日認識はどのような経緯で形成されたのか。
③李鴻章の対日認識は近代日中関係及び清国側の洋務運動にどのような影響を及ぼしたのか。
[研究対象]千歳丸の上海来航(1862年)、健順丸の上海来航(1864年)、条約の予備交渉(1870年)、「日清修好条規」締結(1871年)、マリア・ルス号事件(1872年)、副島種臣外務卿の清国派遣(1873年)、台湾出兵(1874年)
[結論]
①李鴻章は中国伝統的な「羈縻政策」を念頭におき、近代日中関係に取り組んだことが判明した。「羈縻政策」は従来、中国の周辺にいた民族を管理する政策として存在しており、時代ごとに異なった形式で現れていたのである。しかし、近代に入り、世界情勢が大きな変動を生じ、中国は西欧列強に不平等条約を強要され、「条約体制」への加入を余儀なくされた。このような状況の中、実際には伝統的な「羈縻政策」が機能できなくなり、一部の知識人は「羈縻政策」から「羈縻思想」を抽出し、それをもって対外関係を構築しようとした。李鴻章はその中の一人である。本研究で取り上げたいずれの日清外交関係においても、李の持っていた「羈縻思想」を見出すことができる。李は状況により、「連合」「牽制」「警戒」などの柔軟な対策を取ったのである。もっとも肝心なのは「使節派遣」という形で日本の行動を「牽制」しようとした内容である。
②李鴻章はこのような対日認識を持つに至ったのは彼自身の経験とブレーンからの影響が考えられる。
ます、本研究は先行研究で十分に検討されていなかった1860年代から分析した。太平天国軍を鎮圧するとき、西洋の先進的な武器に出会った李は、自国でもそれらの技術を取り入れ、洋務運動を推し進めようと考えた。さらに、清国にある保守的な思想や勢力と立ち向かうため、李は日本を洋務運動のモデルとして取り上げていた。これらの背景があるがゆえに、1864年に日本船健順丸が上海に来航した際、李は千歳丸が来航した際の方針を一変し、積極的に対応していた。
その後、李は直隷総督になり天津教案を処理した際、自ら西洋各国の連合を経験し、これに悩まされていた。このような状況の中、修好を求めてきた日本に対し、李は日本と連合し、日本を自国の外援にさせようという「聯日」思想を抱きはじめた。
1871年条約締結の際、李は「聯日」という考えのみならず、日本からの脅威、とりわけ朝鮮の存在をも配慮し「防日」の言論もした。かくして李は「連合」「籠絡」「牽制」「警戒」などの複雑な観念が混在した「羈縻思想」を生み出したと言えよう。李鴻章らの努力により、日清関係はとうとう条約という形で定着したのである。その後の条約改定や外務卿副島種臣の謁見問題、台湾出兵を処理した際、李は「羈縻思想」を念頭に置き、対策を講じたのである。
さらに、この時期における李の対日認識、対日政策を語る際、ブレーンたちの役割も見逃してはならない。本研究では李に影響を与えたブレーン(馮桂芬、郭嵩燾、丁日昌)を取り上げて、考察した。そのうち、a、馮桂芬の掲げた「自強」思想は李の推進した洋務運動、外交政策の大前提となったこと、b、郭嵩燾による条約の拘束力を重視し、盲目的な戦争を避ける方策は、李の対日政策に影響したこと、c、丁日昌の「羈縻」方策、海防政策がそれぞれ李の「羈縻思想」の形成と北洋海軍の建設に示唆を与えたこと、以上の事実が判明した。
③李がこのような対外政策を取った目的は、一言でいえば、「自強」にあるだろう。李は「自強」をスローガンとした洋務運動を推進させる際、積極的に日本を利用した。
まず、1871年に締結された「日清修好条規」は近代中国におけるはじめての対等条約である。清国は自発的に「華夷秩序」から一歩踏み出し、国際法に基づいた近代的日清関係を構築しようとしたのである。その後、1872年にマリア・ルス号事件が発生し、それを契機として、1874年に清国・ペルー間に中国の出稼ぎ人を保護する対等条約が結ばれた。
次に、1873年に外務卿副島種臣は同治帝に謁見した際、中国伝統的な「三跪九叩」の礼に反対し、初めて立礼で謁見した。この謁見問題の結果から、思想、礼儀作法の両面において清国における「華夷秩序」の崩壊の兆候が窺われる。
さらに、1874年、日本は台湾出兵を起こし、李は日本との決裂を避けるため積極的にその解決策を提言した。その後、清国内部では海防をめぐり論議が行われ、近代海軍の創設も決定された。
以上、清国は思想面、法律面、政治面、礼儀作法及び軍事面のいずれにおいても、客観的にみて元来の「華夷秩序」から近代的な外交関係へ一歩踏み出した。これらをうまく促進したのは、「羈縻思想」を持っていた本研究のキーパーソン李鴻章である。換言すれば、李の「羈縻思想」に基づいた対日政策は、客観的に洋務運動のためによい環境を提供していた。
[今後の課題]
第一に、「日清修好条規」が近代日中関係において果たした役割についてである。「日清修好条規」は一体、どれぐらいの拘束力を持っていたのか。日中の間にこのような対等条約があったにもかかわらず、なぜ日清戦争にまで至ったのか、などの疑問に関しては再検討する必要があるように思われる。
第二に、李鴻章の「羈縻思想」についてである。「羈縻思想」を持っていた李鴻章は、台湾出兵以後の日清関係を処理した際、どのような行動をとったのか。例えば、琉球処分問題や朝鮮関連問題において、その「羈縻思想」がいかに深化し、或いは変容していったのか。
第三に、李鴻章の対日認識と対欧米認識との差異についてである。本研究では主に李鴻章の対日認識を中心に検討してきた。実際には当時の内外関係は非常に複雑で変化に富んでおり、本研究で少し触れたが、未だ十分とは言えない。とりわけ欧米各国の関係史料を利用し、その行動を分析する作業を行っていない。それに対し、今後においては日本語、中国語の史料だけではなく、幅広く関係文書を解読し、その中から清国側の対応や李鴻章の外交行動をより全面的に考察する必要がある。
第四に、引き続き李鴻章のブレーンを検討することである。本論では、「日清修好条規」締結前後を研究対象にし、李のブレーンとして3人だけを考察した。そのほか、朝鮮との関係を処理した際に馬建忠、洋務運動を推進した際に盛宣懐らが活躍していた。これらの人物が李の外交政策、対日認識にどのような影響を与えたのかに関しては、さらに検討を深めていきたい。