表題番号:2012A-832 日付:2013/02/28
研究課題孫呉貨幣経済史に関する基礎的研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 助教 柿沼 陽平
研究成果概要
  本課題は「孫呉貨幣経済史に関する基礎的研究」と題し、いわゆる三国時代に中国江南を占めた孫呉の貨幣経済について検討するものである。その原型はすでに学会報告「孫呉貨幣経済の構造と特質」中国出土資料学会(2012年3月10日,於東京大学)としてまとめていたが、これはあくまで初歩的な研究にとどまっていた。そこで特定課題を申請して、より細部にわたる綿密な研究を実行した。その中心的な成果が、柿沼陽平「孫呉貨幣経済的結構和特点」(『中国経済史研究』2013年第1期)である。
 本研究では、孫呉貨幣経済の構造と特質について検討し、それが魏・呉・蜀三国の中で、じつは最も原形の残る形で漢代貨幣経済を継受したことを論じた。その制度的背景に関してはつとに高敏氏等の研究があるが、必ずしも孫呉の制度や貨幣経済全体を見通したものとはいいがたく、随所に修正すべき論点も含んでいた。そこで本稿は、呉簡等に関する先行研究を高く評価する一方で、その欠を補い、個別の論点を相互に結びつけ、孫呉貨幣経済の体系的把握を目指した。その結果、高敏氏以降の諸研究とは異なる見解に到達した。
 それによると孫呉貨幣経済は、銭・布を主たる国家的決済手段および民間経済的流通手段とし、その意味で後漢末期の貨幣経済と一致し、曹魏経済・蜀漢経済と異なった。しかも孫呉は、漢代以来の銭納人頭税(所謂算賦や口銭)を施行し、さらに巨大な対田租税(穀物+布+銭)を課した。これに対して当時の中原地方は戦乱のため、男耕女織的生産基盤が壊滅し、五銖銭の鋳潰し等も実施された。そのため曹魏は所謂固定的・統一的な戸調制を施行した。かかる戸調制はその後一部改造され、西晉へと受け継がれていった。だが孫呉は銅山等の豊富で多様な自然資源を有し、銭幣経済に中原ほどの壊滅的被害は生じなかった。しかも孫呉は男耕女織政策を施行し続けた。それゆえ孫呉は後漢以来の基本的税制を維持できた。加えて孫呉は、各地の自然環境に応じた柔軟な税制を構築し、それを通じて巨額の戦費に対応した。その一策として孫呉は、銭納人頭税と租税の他に、国家的需要を補完する目的で、多種多様な必要物資の「調(=調発の意。少なくとも一部は官府による物資買い上げ)」を随時実施した。また孫呉には漢代以来の市租などの商業関連税もあった。それは基本的に百銭単位で、漢代市租と一部異なるものの、多くの点で漢制と合致した。その上、孫呉の人口統計は一見すると蜀漢軍事最優先型経済と同じく極端な軍事偏向を有したかのごとくであるが、実際にはその中に非常勤の吏や非常備兵を数多く含み、孫呉の徭役制や兵制はむしろ漢制をほぼ踏襲し、そこに兵戸制を加えたものであった。これは結局、収入面でも支出面でも、孫呉が後漢(とくに後漢末)の制度的継承者であったことを意味する。
 ただし上記の孫呉貨幣経済とその制度的背景は、西晉時代になると一新された。西晉は曹魏の禅譲を受けて中原に君臨し、十数年後に孫呉を滅ぼし、天下を統一し、その過程で名目上、全ての支配領域に対して統一的制度を施行していった。かくて孫呉貨幣経済は徐々に「晉化」していったのである。それは戸調制に代表される西晉税制の浸透を以て嚆矢とした。だが既述のごとく、前掲郴州晉簡(1―44)には、本来「綿絹」で納めるべき戸調の価値を「布」に換算・表示したことをしめす箇所があり、それは制度と実態のズレをしめすものと推測される。なぜなら既述のごとく、「布」は後漢以来江南地方では非常に多く作られた物財であり、逆に呉簡等には「綿絹」関連の記載が少ないからである。つまり「晉化」がすぐさま江南民の実生活に改変を迫ったものであるか否かにはまだ検討の余地がある。これが今後の課題となろう。