表題番号:2012A-001 日付:2013/04/10
研究課題ハルビン在住ロシア・ドイツ人難民のアメリカ移住-1920~1930年代
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 政治経済学術院 教授 鈴木 健夫
研究成果概要
エカチェリーナ2世およびアレクサンドル1世の誘致によりヴォルガ地方および南ロシアに入植したドイツ人移民は、当初は諸特権(土地割当、租税免除、兵役免除、信仰自由等々)を与えられていたが、19世紀中葉の農奴制廃止・司法改革等の「大改革」を経て1870年代になると、ロシア化政策が推し進められ、ロシア人農民と同じ臣民となり、租税や兵役等の義務を課せられるようになった。そればかりか、反ドイツ主義が高まるなか、20世紀に入ると、1905年革命、第一次世界大戦、社会主義革命、内戦、大飢饉、スターリンによるシベリア・カザフスタン強制移住、第二次世界大戦、スターリン批判、ソ連崩壊という相次ぐ激動のなかで厳しい運命に晒された。このような過酷な環境のなかで、数多くの人々が命を落とし、数多くの人々が国外へと移住していった。その移住先は祖国ドイツのほかに、アメリカ合衆国、カナダ、アルゼンチン、ブラジル、パラグァイなどの南北アメリカ大陸であった。1870年代から始まるロシア・ドイツ人のアメリカ移住は、ドイツを経由してそのハンブルク港から海路で向かうルートと、多くは難民としてヨーロッパ・ロシア中央部・南部から移住していたシベリアから極東地域を経て向かうルートとがあった。本研究は、特に1920年代末から1930年代初頭にかけてスターリンによる強制的な農業集団化を忌避してシベリアからハルビンへと逃げてきた難民が、その後、どのようにしてさらに南北アメリカ大陸に移住して行ったかを、主要な解明の目的とした。ハルビンは極東地域のロシア・ドイツ人の拠点であり、そこにシベリアから冬の凍結した国境アムール川(黒竜江)を夜間に大きな危険を冒して不法に渡ってきたのであるが、その後の再移住については不明なことが多い。
 この目的の遂行のために、関連の文献を探索して購入・分析するとともに、2012年9月1日から同月14日にかけてドイツの外国関係研究所(シュトゥットガルト)、バーデン・ヴュルテンブルク州立図書館(同)、チュービンゲン大学図書館、メンノ派歴史協会文書館(ヴァイアーホーフ)、北東研究所(ゲッチンゲン)に出張、また2013年2月3日から同月10日にかけて他の研究費を使用してアメリカのメンノ派文書館(ノースニュートン)とアメリか福音派ルター派教会文書館(シカゴ)に出張し、当時の報告書・書簡の原史料、新聞・雑誌の関連記事、書籍の関連箇所をコピーした。
 以上の作業を通じて、1920年代末から1930年代初頭にかけてスターリンの強制的な農業集団化を忌避してハルビンへと逃げてきた難民は、その後、当地のドイツ人難民委員会とアメリカ合衆国の教会本部の支援を受けて、ヨーロッパ諸国の拒否的態度などもあって確かに容易に事が運んだわけではなかったが、さまざまな交渉の結果、何回かにわたって、合衆国、カナダ、パラグアイ、ブラジル、アルゼンチンへとーーそのなかではパラグアイが最大の目的地となったがーー再移住して行ったことが明らかとなった。その再移住は、まずは上海へ、そこから船でマルセーユへ、そして陸路をボルドーへ、そしてそこから海路によってそれぞれの目的地へというのが主要のルートであった。宗派毎の移住者名簿も不完全ではあるがいくつか取得し、再移住者の目的地毎の総数や宗派を解明する手掛かりを得た他、この再移住を通して当時の困難な各国の国内事情と国際関係を浮き彫りにすることが可能となった。加えて、この時期より前にハルビンに到着していたロシア・ドイツ人難民の南北アメリカ大陸再移住についても、たとえば上海経由だけでなく日本経由のルートがあったことなど、さまざまな事情が明らかとなり、この問題の総合的究明の道を開くことができた。