表題番号:2011A-946 日付:2012/04/13
研究課題アジアの政経分離統合のメカニズム-1965年の大転換期を起点として
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 国際学術院 助教 平川 幸子
研究成果概要
アジアでの地域協力、地域統合は、デファクトの経済分野から先に始まった。そして、市場誘導型の動きに導かれながら、1997年のアジア通貨危機以後に政府主導の制度型の協力や統合が推進されている。政府のリーダーシップの強いヨーロッパとは違う特徴を持つアジア地域の統合状況は、アジア地域固有の歴史的背景から説明ができるのだろうか。「政経分離」「政冷経熱」の言葉が語るように、アジアでは異なる政治体制でありながらも密接な経済関係を結ぶ場合があり、経済社会領域を優先する傾向がある。
本研究は、アジア地域統合の中心的存在であるASEANの諸国を取り上げて、地域協力精神の起点を探し、その点を実証しようとした。ASEANは1967年に経済社会協力の枠組みとして結成されたが、それに至る道筋を整理しつつイデオロギー的な大政治の時代が、いかにして経済成長優先の実質的な時代に向かったかの理解を試みた。以下、成果報告をまとめる。
 東南アジアの戦後20年間は、植民地経験の長かった東南アジア諸国にとって独立や建国、脱植民地化という国家的課題とともに、新たな地域秩序を模索する混沌のプロセスでもあった。旧宗主国や日本という外部勢力が去った後に、新たに流入しつつあった米ソ両大国による新たな「冷戦」の論理に抵抗する、アジアの新興独立国からの連帯的主張を模索していたのである。
インド、インドネシア、ビルマなどのリーダーシップで、アジア関係会議(1947)、アジア独立諸国会議(1949)、コロンボ会議(1954)、ボゴール会議(1954)などの地域的国際会議が次々と開催された。また、ビルマのイニシアチブにより社会主義者の間でも大規模な「アジア社会党会議」(1953)が組織された。どのような政治的立場にも「アジア」というつながりの発想があったのである。これらの潮流は、やがて1955年の第一回バンドン会議(アジア・アフリカ会議)に結実する。バンドン会議は、SEATO(1954)に代表されるような域外大国主導の地域主義に対抗する要素を持っていた。たとえば、米国が中国の存在を認めず封じ込め政策を取っている時、バンドン会議は中国との「平和共存」の精神で開催された。
しかし、間もなく、アジア諸国の進む道は分岐していく。建国時の理想を通し独自の路線を模索する非同盟諸国と、マレーシア・フィリピン・タイなど反共・親欧米諸国との間での差異が明らかになる。とりわけ、1957年に遅ればせながら独立を果たしたマラヤ連邦(マレーシア)の動きが、東南アジアにおける地域主義の流れを転換した。当時の地域連帯の象徴であるバンドン精神に則り「非同盟中立」を標榜していながら、現実には旧宗主国である英国と同盟を結び、「中立」ではない立場から独自のアジアの地域秩序を目指した。初代首相ラーマンが取ったのは、政治的立場は問わないまま、経済社会領域を中心として、善隣関係の連結によって地域枠組みを拡大するという手法であった。それは、独立や革命を通して体得した政治的思想や主義に基づいて連帯を求めるインドネシアのスカルノらの手法とは違い、より客観的で実務的な判断に基づいた地域主義であった。ASA(1961)、マフィリンド(1963)、そしてASEAN〈1967〉とマレーシア主導による地域組織が築かれていく。その過程では、インドネシア・マレーシア対立、そして9.30事件(1965)によりインドネシアの国内体制が変更されたことが決定的要因となって、現在に至る東南アジアの地域主義の流れが収斂されていった。
 特定課題で与えられた研究費で、海外調査を行い一次資料の収集、整理を行い、別項に述べるような学会発表、論文執筆を行った。現在のところ、一次資料を活用した歴史論文をまとめているが、今後は、さらに政治統合と経済統合の関係性などについての考察を深めて、アジア地域統合のモデルを示せるよう、研究を発展させたい。