表題番号:2011A-019 日付:2014/04/08
研究課題「朝日新聞」紙面から読む漱石文学の読者論的研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 教育・総合科学学術院 教授 石原 千秋
研究成果概要
 夏目漱石が「朝日新聞」の専属作家となったのは明治40年で、はじめての連載小説は6月23日から10月29日までの『虞美人草』である。「朝日新聞」は当初は下町の町人階層がマーケットだったが、しだいに層を厚くし始めた山の手の中産階級にターゲットを切り替えた。それには知的な紙面作りが必要だったが、その象徴が夏目漱石を専属作家にすることだった。したがって、夏目漱石には「朝日新聞」の読者を満足させる職業的義務があったのである。しかし、この『虞美人草』ではそれに失敗したと考えている。
 もともと『虞美人草』失敗説は少なくない。夏目漱石は『虞美人草』を、直接的には小栗風葉の女学生小説『青春』を意識して書いたことはすでに明らかにされているが、おそらくは明治30年代に大流行した家庭小説をも意識して書いたと思われる。漱石十八番となる遺産相続小説だからである。遺産相続が問題となるのは中産階級以上の階級であって、これが山の手の読者への配慮だったことは、ほぼ間違いがないと考えている。しかし、『虞美人草』は読者論的に見て、成功しなかった。その原因は、夏目漱石が『虞美人草』を家庭小説好みの勧善懲悪の哲学で書ききってしまったことにある。その結果、近代的な女性であるヒロインの藤尾を自殺させ、夏目漱石の弟子たちをいたく失望させたのである。これが失敗の原因だった。ただし、これは夏目漱石の身近にいた読者の問題だと言っていい。
 読者論的には、もう一つのレベルの失敗があった。それは、明治40年の3月から7月まで上野公園で開催された博覧会を、おそらく読者サービスの一環として物語の背景に書き込みながら、『虞美人草』ではそれを「近代」の象徴として批判してしまったのである。しかし、世の中も、またおそらく「朝日新聞」の読者も、「近代」に憧れていたし、博覧会をその「近代」の象徴として歓迎し、楽しんでいたのである。事実、「朝日新聞」では3月のはじめから博覧会情報を連日コラムで報道し、博覧会への期待を盛り上げていた。試みに博覧会初日の3月20日の紙面から引用してみよう。「会場より袴越しまでの通路両側には新設の瓦斯燈煌々と輝き渡り」とか、「イルミネーションを試点して大に群衆を喜ばせたり」といった記述が見られる。
 ところが夏目漱石は、博覧会を死すべき女性である藤尾と重ね、嫌悪すべきイベントとして書いてしまったのである。たとえば、博覧会に集まる群衆を「蟻」にたとえ、イルミネーションに集まる群衆を「蛾」にたとえて書いてしまった。これでは先に引用した「朝日新聞」の記述と相容れない。読者論的に言えば、「朝日新聞」の記事に誘われてすでに博覧会を訪れた読者は、その数ヶ月後の『虞美人草』の、まるで自分対が批判されているような記述を読んで違和感を持ったはずである。『虞美人草』の失敗は、たしかに小説構成上は勧善懲悪で押し切ったところにあるが、「朝日新聞」の読者を視野に入れた読者論的に見れば、博覧会の扱いがまちがっていたのである。以後、夏目漱石が「朝日新聞」の記事を小説構成上に活かしながら書くようになったことを思えば、この読者論的な失敗の意味は、漱石文学の理解において大きな意味を持つと考えられる。