表題番号:2010A-812 日付:2011/05/07
研究課題近世より明治期にかけて日本漢詩文の研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 教授 池澤 一郎
研究成果概要
 本年度、特定課題研究助成費を受けて、わたしは次のような研究を進め、論文の体裁で成果を発表した。
 まず、近代日本漢詩文に関しては、引き続き矢野龍渓が漢文で書き綴った碑文についての調査と報告を行った。龍渓の碑文は、都営谷中霊園内に現存する江木高遠の遺髪碑と都立青山霊園に存在する井上良一の墓碑銘との存在が知られるが、本年度は後者の研究を行った。井上は最初期の邦人東大法学部教授で、外国人招聘教授の後を受けて就任し、将来を大いに嘱望されたが、若くして没したゆえに、後世に名を遺すまでの成果を挙げられなかった人物である。また矢野龍渓や江木高遠らとともに、福沢諭吉門下として、頭角を現し、自由民権運動の前史をなす各所で行われたの講演会、演説会の中心人物のひとりであったが、墓碑銘においては、江木がその天才的な弁論の才を多々えら手いるのに比して、若年時から米国に留学していたがゆえに、日本語は訥弁であったと伝えられている。成果は、『江戸風雅』第四号に論文として発表した。
 また近世から近代への過渡期の漢詩文の研究として、広瀬林外と広瀬青村との墓碑銘を都営多摩霊園に訪査した。林外も青村も広瀬淡窓、旭荘という近世漢詩人中の巨星の実子養子であり、当時の評価としては父にひけをとらぬもののあったものの、歴史の波に埋没してしまった漢詩人であった。調査の結果、青村は最終的には私塾の塾頭として終わったことに挫折感を味わっていたということが碑文の内容から明らかになり、林外については福沢らの提唱する新知識摂取にも意欲的であったことが浮き彫りになった。また墓所の実地踏査により、林外の実父旭荘の早世した賢夫人である松子の墓石が小石川伝通院から移されて、多磨霊園の広瀬家墓所に林外の墓石に寄り添うようにして現存していたことが明らかになった。成果は『江戸風雅』第3号に論文として発表した。
 さらにまた長年研究を続けている近世漢詩文研究の対象として、大田南畝の紀行文・日記に着目し、本年度は『調布日記』の中でどのように漢詩文が機能しているかを調査した。その結果、南畝の紀行文・日記の中の漢詩文は、ただに衒学的に引用されているわけではなく、行文において種々に有機的に関連し、文章に味わい深い奥行きと詩情を添えていることを明らかにした。成果については、論文の形で、『国語と国文学』(2011年5月号)および、『国文学研究』(第百六十三集)に発表した。