表題番号:2010A-018 日付:2011/04/09
研究課題読者から見た明治30年代の「家庭小説」と漱石文学との比較研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 教育・総合科学学術院 教授 石原 千秋
研究成果概要
 「朝日新聞」専属作家としての漱石が意識せざるを得なかった先行の小説ジャンルは、少なくとも2種類あると思われる。いずれも明治30年代に新聞連載小説として大流行したもので、第一は女学生小説であり、第二が家庭小説である。第一に関しては、漱石の小説には女学生はほとんど登場せず、かつて女学生だった女性が重要な登場人物となっている。漱石は、いわば「ポスト=女学生小説」を書き続けたのである。本研究のテーマである第二に関しては、漱石が遺産相続を巡る物語を書き続けたことをあげることができる。これは漱石が学んだイギリス文学の影響もあるだろうが、日本の家庭小説への対抗意識があったのではないだろうか。
 明治30年代に大流行した家庭小説には、大きな特徴がある。それは、あえて乱暴にまとめれば、不倫、離婚、堕胎が3大アイテムとして使われる荒唐無稽とも言っていい物語が展開される一方で、結末では幸せな家庭に落ち着くことである。これは、やや突飛な連想だが、「売春、レイプ、妊娠、薬物、不治の病、自殺」といったアイテムによって荒唐無稽な物語が展開されながら、結末には「真実の愛」が用意され、ホモ・ソーシャルの枠組みにすっぽり収まるケータイ小説とよく似たところがある(石原千秋『ケータイ小説は文学か』ちくまプリマ-新書、2008・6)。しかし、数年前に大流行したケータイ小説の結末が古い道徳に収まっていると感じられるとすれば、明治30年代に大流行した家庭小説の結末は「家庭=スイート・ホーム」という新しさを感じさせたはずである。同じように家庭を舞台としながら、漱石はそれとは違った新しさを書かなければならなかったのである。
 最近の研究では、家庭小説は理想的な家庭に古い型のロマンスを持ち込んだものだとされている。「理想的な家庭」とは新しさのことであり、そこに落ち着くまでの物語を支えるのは古風なロマンスだということである。一方、漱石の小説はこの系譜を継ぐ面もあるが、あえて言えば、理想的でない家庭に新しいロマンスを持ち込んだものである。そこに家庭小説とは異なった軋みが生じているが、その軋みは個人としての愛を際立たせる役割を果たしている。そして漱石文学において、その軋みを生み出すほとんど唯一の装置=アイテムが遺産相続を巡る物語だったのである。これは当時の「朝日新聞」の読者層、すなわち「遺産」に値する財産を持つことができた新興中産階級に合わせたものだったとも言うことができる。それが、朝日新聞社の専属作家だった漱石の職業意識だったのである。
 なおこれらの成果は、『漱石へ-ポスト=女学生小説の誕生』として刊行すべく準備中である。漱石の小説は「ポスト=家庭小説」でもあるわけなので、タイトルは仮題である。