表題番号:2009A-011 日付:2010/04/10
研究課題エイゼンシテイン『方法』の草稿研究、ならびにエイゼンシテイン対ヴェルトフ論争研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 教授 大石 雅彦
研究成果概要
 本研究の課題は二つあります。エイゼンシテイン『方法』の草稿研究、ならびにエイゼンシテインとヴェルトフとの関係です。以下、それぞれの成果について述べます。
 1)『方法』は未完かつ未刊の大部の理論書であり、死後刊行された『方法1、2』(クレイマン監修)は必ずしも最良の形で構成されているとはいいがたいものです。実際、ブルガコヴァはクレイマンの提示する構成に対して疑問を投げかけています。
 この構成の問題に迫るために、わたしは2009年の9月に3週間ほどモスクワに滞在し、ロシア国立文献保管所(ルガーリ)において、『方法』の草稿に、可能な限りあたりました。この短い期間では、すべてを丁寧に調べるというわけにはいかなかったのですが、クレイマン監修本の構成の問題点は、見えてきました。
 クレイマンは幾つかの大テーマ別に草稿を分類し、そしてその分類から洩れたものを付録として括っています。草稿の本来の構成コンセプトが多方向的に、モチーフの連想によって連結されることを意図したものである以上、クレイマンのような構成法をとると、この連想運動の自由が妨げられることになります。著者の意図にそったもっとも効果的な配列法(アレンジメント)として思いうかぶのは、できる限り細かなモチーフ別の断片に全体を分割し、それらを円環状に配列するものです。そしてそれを、モチーフの連想的つながりにしたがいつつ、読みすすめていくのです。エイゼンシテインが望んでいたように、この読みには初めも終わりもありません。彼の夢がマラルメやフレーブニコフの思い描いたような一冊の本(多価関数的な)にあったからには、これ以外に、本としての構成は考えられないでしょう。『方法』は、情報体・本・世界の鎖列を考えるのに、格好のフィールドといえるでしょう。
 2)エイゼンシテインとヴェルトフの問題に関しては、わたし自身今までにも触れてきましたが、今回改めて二人の「イノセント・アイ」の違いがどのようなものなのかを考えてみました。映画眼によって築かれるイメージ・運動・イデオロギーの連鎖に、両者ともに、肉眼にはかなわない視覚のイノセント性を見ていました。そこに異なるジャンルの「記憶」が介入する過程で、二人の差異は生まれます。1920年代初期にあっては、劇映画と非劇映画というものが、いまだジャンルとしての「記憶」を充分に確立できていなかったために、逆に二人はジャンル意識に強くしばられ、激しい衝突を繰り返すことになったのです。ドキュメンタリーと劇(物語)映画の線引きが単純にはできなくなっている今日、二人の交わした論争はより大きな意味を持つといえます。