表題番号:2008A-824 日付:2010/02/19
研究課題中国の「文人」像の展開と詩歌享受の関係についての研究ー唐宋期における王維詩の評価と受容を例としてー
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 助手 紺野 達也
研究成果概要
 本研究課題は、唐宋期における王維詩の評価と受容を例として中国の「文人」像の展開と詩歌享受の関係を研究するものである。とくに、後世、王維の代表作とされる『モウ(車罔)川集』への評価と受容を重点的に考察した。
 唐代には『モウ(車罔)川集』への言及はほとんどなかったが、つづく五代から北宋初期に絵画作品の「モウ(車罔)図」が広く知られたことにより、その後の北宋中期には詩歌でも、王維が詩画ともにすぐれた人物として述べられはじめる。この前提として、文人の間に、王維のモウ(車罔)川別業における文雅な生活への共感があったと考えられる。
 それを承けた北宋後期、とくに蘇軾と「蘇門」の文人たちは「モウ(車罔)川図」に言及するだけではなく、『モウ(車罔)川集』を詩歌のなかに登場させた。また、彼らには『モウ(車罔)川集』に類似した連作組詩の創作もみられる。このような踏襲あるいは模倣は、北宋後期における『モウ(車罔)川集』への関心の高まりを具現化したものであると言える。つまり、蘇軾ら士大夫文人の絵画創作に対する意識の顕著な変化によって、詩歌である『モウ(車罔)川集』は、同じ王維の「モウ(車罔)川図」と一体となって、蘇門を中心とする文人に意識され、模倣され始めたと考える。
 さらに、このような『モウ(車罔)川集』評価史上の転換が生じた理由についても考察する。文人の間で詩歌と絵画を同質視する観念が顕著となることによって、北宋中期における「モウ(車罔)川図」への関心を下地としつつ、北宋後期の文人は『モウ(車罔)川集』と「モウ(車罔)川図」は一組の作品とみなした。その結果、これらは、文人にとって過去における詩画一致の恰好の典型となった。つまり、文人における『モウ(車罔)川集』への関心の高まりとは、園林の世界を詩画の両方によって表現することこそ文雅な生活の理想的実践であるとする認識を反映するものだったのである。
 その後、南宋では『モウ(車罔)川集』により直接的に言及する作品が現れ、また『モウ(車罔)川集』が詩歌様式の一種とさえ認められるようになる。そして、これらのモウ(車罔)川の世界は退隠に適当な風景として典型化が進んだ。その結果、王維の代表作はすなわち『モウ(車罔)川集』であり、それを文人生活の理想を描いた作品とみなす観念が普遍的になっていったと思われる。