表題番号:2007A-118 日付:2008/03/23
研究課題遼寧省朝陽周辺における壁画墓と三燕社会
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 本庄高等学院 教諭 三﨑 良章
研究成果概要
 本研究の目的は中国遼寧省朝陽周辺で発掘された壁画墓、すなわち馮素弗墓、馮素弗妻墓、北廟1号墓、大平房村壁画墓、袁台子壁画墓の現状を把握し、壁画を始めとする資料を収集した上で、これら5基の壁画墓の全体像を提示し、漢族、鮮卑族等の諸民族の混住、融合の中で形成されたと考えられる三燕社会の実態を明らかにすることにあった。
 具体的な作業としては、遼西博物館の協力を得て朝陽の5基の壁画墓のうちすでに調査を行なっている袁台子壁画墓を除く4基の現状を調査した。また4世紀中期と推定される朝陽の壁画墓建造開始の直前の4世紀前半までの約200 年間に建造され、地理的にも近接する遼陽の壁画墓については、遼陽市博物館の協力を受けて令支令墓等11基の現状調査を行ない、遼陽市博物館、遼寧省博物館で画像の収集を行なった。
その結果、朝陽においては、壁画墓の所在地等から、鮮卑族の要素が強い北廟1号墓と漢族の要素が強い大平房村壁画墓の近縁関係、首都龍城を中心に広範囲に広がる三燕の遼西支配の構造についての見通しを得ることができた。また遼陽においては、壁画墓の構造、画像内容の分析等から、中原における漢魏交替とは異なり、遼東社会は後漢時代後期から西晋時代に至るまで強い連続性を保っていたことを確認した。そしてその連続性に対しては、遼陽を拠点とした2世紀末から3世紀前半にかけての公孫度から公孫淵に至る公孫氏政権の役割が大きかったことを明らかにすることができた。さらに遼陽の壁画墓の衰退には鮮卑慕容氏政権が関わっていることは間違いなく、遼陽から朝陽へ、漢族社会から三燕社会への壁画墓文化の伝播も推定することができた。
 本研究の成果の一部についてはすでに2007年10月の中国魏晋南北朝史学会で報告したが、さらに2008年度末以降、順次論文で発表する予定である。