表題番号:2006B-053 日付:2013/05/15
研究課題シェイクスピアの『二人の貴公子』から見る同時代の悲喜劇のパースペクティブ
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 助教授 冬木 ひろみ
研究成果概要
 一年の過程の中で、17世紀初頭のイギリスにおける悲喜劇そのものの流れを広範な作品群のなかで追うことに関しては、若干の時間的不足があったが、少なくとも、フランシス・ボーモントとジョン・フレッチャーの共作による当時人気の悲喜劇というジャンルからの射程のなかで、シェイクスピアがこの『二人の貴公子』に何を書き込もうとしたのかに関する考察はかなり深められたように思う。
 今回の特定課題の成果として、本年度最後(2007年3月)に上梓することになった論文「『二人の貴公子』の二重のまなざし」(『ことばと文化のシェイクスピア』冬木ひろみ編、早稲田大学出版部)では、悲喜劇の視座に立って、主に言語と結婚観の面からの分析をした。最も中心としたのは、『二人の貴公子』における結婚に対する悲喜劇的な二重の視点であり、シェイクスピアのこれまでの劇にはない暗さとアイロニーである。この劇には、最初から結婚に関して、皮肉で冷ややかな視点があり、それがヒロインとサブ・プロットの狂ってしまう牢番の娘との対比的な描き方に通じている。また、そうした乖離した視点が最後の悲劇とも見まごうような結末において最も明瞭になり、登場人物の実際の死を経なければ結婚など成立しない、という一種のペシミスティックな、時代をも予感させる終り方を現出している。
 悲喜劇は、当時の定型的な概念しては、悲劇寸前まで行くが少なくとも人物は死なず、すべてがうまく解決されるというものであるが、そうした概念から大きく逸脱しながらも『二人の貴公子』は、やはりタイトル通り「悲喜劇」であるに違いない。というのも、プロットからも言語からも、最後の場面は最初の場面へと円環を描いてゆくような意匠をもっており、それは死と結婚が常に並列されるもの、という二重性を響かせているからだ。しかしながら、結婚に至る過程も含め、その欺瞞と疑念を女性の側からも描きえているこの劇は、悲喜劇のパースペクティブから見ても、通俗に堕さない思考の深さを兼ね備えた、この時代としては極めて特異な存在だったといえよう。