表題番号:2006A-020 日付:2009/04/22
研究課題中国古代の蜀地における移民の研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 教授 工藤 元男
(連携研究者) 文学学術院 教授 工藤 元男
研究成果概要
古代中国の秦漢帝国の成立に伴って、どのように中国全土が中国文明化してゆくかという視点から、これを古代の四川(蜀)を地域モデルとして検討した。
蜀は現在の成都を中心とする国で、戦国中期(前316年)に秦の恵文王によって征服され、以後、この地に対する秦の占領支配が行われた。しかしその過程を詳細に検討してゆくと、秦は蜀を占領しても、すぐ郡を置いて中央派遣の官吏による直轄支配したわけではなく、睡虎地秦簡にみえる属邦律の“属邦”として支配したと想定される。蜀郡が置かれる以前の秦武王2年の紀年をもつ青川木牘為田律が四川東北の秦人移民墓から出土するのは、それを象徴する。この地は戦国秦において少数民族が居住する湔氐道であったと思われ、この地を開発するため秦政府は秦民を送り込み、その秦民を率いてきた秦の下級官吏が保持していたものが同木牘であった。ここに「道」(少数民族が居住する県)を統括する属邦という地方行政機構が想定され、郡県支配以前の秦の地方行政の一端が看取される。つまり、秦は蜀地の少数民族を占領支配する上で、まず「道」を置き、それを統括するのが属邦であり、そこへ秦民を雑居させて秦化を図り、秦の法制支配が進展するにつれて、道の支配を属邦から郡に移管させたと考えられる。
 このように、秦の郡県支配において、とくに少数民族の多かった蜀地において属邦の果たした役割は大きく、属邦における当地の秦化を推進した重要な政策の一つが秦民の移住であったと考えられる。
 戦国時代、蜀地にどのようして秦人が送り込まれたかについては、すでに睡虎地秦簡に基づく法制面からの別稿があるが、前漢時代の状況については張家山漢簡「二年律令」による分析が必要で、それに関しては近く稿を改めて検討する。
 2007年春、もう一つの秦人の移民墓である成都市西南の龍泉駅の遺跡を現地調査した。道路沿いの遺跡はすでに埋め戻されているが、5月中に二次発掘があるとのこと。こうした秦人墓の現地調査で問題になるのは、発掘事例がまだ少なく、しかも秦墓と前漢墓との区別が考古学的にも容易でない点である。今後、こうした困難も含めて、よりいっそう具体的に秦民の移動(移民)と秦化の過程を検討してゆきたい。