表題番号:2005B-044 日付:2006/10/26
研究課題中国科挙制度からみた呉興士人社会の形成と展開
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 教授 近藤 一成
研究成果概要
 中国「近世」史の前半に位置する宋代と元代は、政権を担当した王朝政府の在り方からみると対照的といえる。唐末五代の政治的分裂期を終息させ、再び天下を統一した宋朝は、しかし歴代の他の統一王朝に比べその版図は最小ともいえる範囲にとどまった。反対に元朝はモンゴル帝国の一部として広大なユーラシア大陸とのつながりのなかでモンゴルを中核とする多民族複合国家(杉山正明氏の表現)として展開した。これを中華文明という枠で考えると、宋は「近世」中国社会の担い手として新たに士人と呼ばれる読書人層が生まれた時代であり、かれらは科挙の合格者、受験者とその予備軍からなり士人層を構成した。これは中華文明の粋を具現する士人社会が、国家制度である科挙とのかかわりの中から出現したことを意味する。元代は、その士人層が拠る科挙が廃止、ないし実質的に廃され、その結果、士人層は、国家と繋がる路が著しく制限される中で活動せねばならなくなり、その統治階層としての立場は変質を余儀なくされた。
 呉興と称される湖州は、北宋南宋を通じての科挙合格者の動向が南宋期になると時代を追うごとに逓減するという傾向を示す。実は、経済の先進地帯・文化の淵藪といわれる中国東南部にあって浙西の諸州は軒並み同様の傾向を示し、逆に増加傾向を示す浙東諸州と好対照なのである。かといって経済・文化の面で前者が後者に遅れをとるようになったわけではない。何故こうした現象が起るのか検討が必要になる。
 南宋から元にかけて活動した呉興の趙孟頫は、宋の宗室でありながら元朝の五代の皇帝に仕え、元を代表とする文人官僚として一生を送った。一方、南宋の都杭州臨安府の賑わいを活写した武林旧事をはじめ膨大な著作を著わした周密は、代々の官僚の家に生まれ、恩蔭によって官を得たが、南宋滅亡後は元に仕えず遺民として過ごした。その生き方が対蹠的な二人に、趙孟頫がその代表作である鵲華秋色図を周密の為に画き上げ贈ったように、親密な交流があったことは、士大夫とよばれるかれらの生き方が単純ではないことを示唆する。しかし乾隆帝愛蔵のこの図巻は甚だ疑問の多い作品である。この真偽の定かでない鵲華秋色図を手がかりに両人の関係、ひいては呉興士人社会の実像に迫ってみた。