表題番号:2005A-015 日付:2006/03/13
研究課題ステファヌ・マラルメの初期詩篇についての註解研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 教授 川瀬 武夫
研究成果概要
2005年度の特定課題研究は、特別研究期間制度適用に伴うフランス(パリ)での在外研究と重ねて実施されることとなったので、地の利を生かす形で、ステファヌ・マラルメの初期詩篇とフランスの首都とのかかわりに焦点をあてることにした。
マラルメはパリ生まれであったが、14歳のとき中級官吏であった父親の任地の関係でサンスのリセに転校したから、そのときから1862-1863年の1年間のロンドン滞在を経て、1871年にパリ・コミューン崩壊後の首都へリセ・コンドルセの英語教師となって舞い戻るにいたるまで、詩人とパリとの関係はしばらく途絶えていたかに見えなくもない。
しかしこのかんマラルメとパリとの紐帯を保ちつづけるものがあったとすれば、それは彼が自分のまわりに張り巡らせた人間関係のネットワークであった。まず、サンスのリセに国語教員として赴任してきた新進の詩人エマニュエル・デ・ゼサールが若きマラルメを地方都市の孤独から救い出す。そして、このデ・ゼサールの紹介によって、アンリ・カザリス、カチュル・マンデス、ヴィリエ・ド・リラダンといったパリに住む気鋭の文学者たちと実り多い交友関係を結んでいくのである。
 さらにデ・ゼサールは、マラルメをこれに劣らぬ重要な交遊サークルのなかに導き入れることになる。のちにニナ・ド・ヴィヤールの名で知られるようになる個性的な女性とその取り巻き連中が作り上げていた独特な世界である(デ・ゼサールはニナに求愛して拒絶されている)。マラルメの最初に印刷された詩篇群は、じつはこの交遊圏から直接生まれたものであり、さらに1870年代に入ってからも、マラルメは成長したニナの主宰する文学サロンに出入りすることによって、シャルル・クロやエドゥアール・マネらと知り合いになる(マネはこの時期有名なニナの肖像画を描く)。パリに戻ったマラルメが、独自のジャーナリズム活動を通じてフランスの首都の祝祭的な「現在」に目を開かされたこととニナの現代的なサロンの存在は決して無関係ではなかったはずである。
 従来ほとんど注目されてこなかったマラルメとニナ・ド・ヴィヤールのとの関係は、モード雑誌「最新流行」刊行の経緯も含めて、きわめて重要なものであることが判明している。パリでの資料調査の成果も踏まえて、今後もこのテーマを追求していく予定である。