表題番号:2004B-860 日付:2005/03/25
研究課題18・19世紀における漕運港と北京の食糧供給に関する基礎研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 理工学術院 助教授 熊 遠報
研究成果概要
 本研究では、都市のライフライン問題を意識しながら、明清時代、特に18―19世紀において、北京という巨大な都市の食糧需要、漕運港と食糧運輸、貯蔵、支給、運搬などの検討を通じて、国家財政、下層労働者と北京の食糧供給の実態と構造に接近してみた。
 行政システムと軍事系統の中心に位置する北京の日常機能を維持するために、清朝政府は、現金と現物による財政収入の主要な部分を北京に投入していた。生産地域と財政消費地域のアンバランスを解消するため、清朝政府は厖大な行政組織と膨大な税収を通じて、毎年南方から約四百万石の現物税=食糧を北京に運搬していた。国家財政支出による食糧の遠距離運輸は、運河沿岸の多くの人々に仕事の機会を与えた。特に、通州は、運河の終点で、かつ、北京まで約数十キロの水上運輸と倉庫基地があったため、毎日数万の外来労働者が、食糧の運搬、積み下ろしなどの仕事を行なっていた。ここで働いていた数万人は北京の百万以上の人口に食糧を直接供給していた。即ち、百万以上の人口の食糧を提供していたのは、運河を経由した物流であったが、都市の空間構造の中で北京の東部および通州までの地域は、巨大都市の運輸港と食糧倉庫の役割を担っていたのである。
 十七世紀から二十世紀初頭にかけて、清王朝は、首都北京を中心に、政治・軍事・財政などの資源の配置、配分、調達を行ない、政権を運営していた。財政の側面から見れば、宮廷と首都の政治的機能を維持するために、各地方から徴収した税金の主要な部分は、北京において消費、再分配されていた。特に南方からの現物税の調達は、生産と消費の不均衡を物語っていると同時に、長江流域という主要な経済区域が清朝国家の運営を支えていたことを物語っている。一方、十七世紀以降、王朝の首都としての日常生活、特に巨大消費都市における正常機能を維持するためには、汚く重く辛い肉体労働に従事する人が大量に必要であった。国家財政で支える厖大な「寄生的」な八旗集団の存在は、首都北京に大きなサービス・商売の空間を生じた。したがって基本的に最初は北京の周辺地域、そして直隷(河北)、山西、山東などの農村社会の人々が、北京に流入し、都市のサービス業、特にライフラインの供給という役割を果たしていた。清朝におけるこうした産業の進歩ではなく財政による旺盛な消費が都市の繁栄をもたらすという奇妙な構図は、満州族を中心とする王朝の社会構造および中国社会の不均衡な展開を物語っている。