表題番号:2004A-080 日付:2008/11/16
研究課題入試国語の研究-何が国語力として問われているのか-
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 教育・総合科学学術院 教授 石原 千秋
研究成果概要
日本の入試国語は、高等教育が大衆化する以前と以後とでは大きく性格を異にする。
大衆化以前、すなわち戦前期から昭和30年代ごろまでは、古典の現代語訳と知識問題が中心であった。戦後期になって現代文が出題され始めても、本文自体が短く、ある程度の知識がなければ本文の前提となっている背景(文脈)が理解できないものばかりである。その意味で、この時期においては、現代文の解釈問題の形式をとっていても、その実はかなりの程度まで知識を問う問題だったと言っていい。これは、高等教育を受ける機会を持てる人間がある階層に限られていたために、その階層には共通の「教養」を求めることができるという前提があったからではないだろうか。しかし、それが知識を問う問題となって形に表れたために、大衆化した高等教育では「知識ばかり問い、思考力を問わない問題」として、批判を浴びることになったのだろう。現在、たとえば文学史に関する問を出題しただけでも、「知識偏重」という批判を浴びなければならなくなったのは、この時代の入試国語への批判が言葉だけ独り歩きしたものではないかと考えている。
高等教育が大衆化した昭和30年代以降は、知識を問う問題は極端に減ってきており、その分現代文の本文が長くなった。これは、ある共通の「教養」を持っていることが期待できないので、本文に問題提起の前提までも書き込んであるものを選ばなければならなくなったからだろう。そこで設問も、大きく「情報処理型」と「語り直し型」に分かれることになる。「情報処理型」とは、本文の傍線部について、本文の中から断片化された「情報」をつなげて答えるような設問形式である。これは、本文の論の展開がある程度ルーズな場合に用いられる設問である。「語り直し型」とは、本文の傍線部について、本文の言葉をある程度利用しながら、「自分の言葉」で言い直すような設問形式である。これは、本文の言い回しが高度であったり、舌足らずであったりする場合に用いられる設問である。いずれにせよ、大衆化以前の本文と比べると、知識を問えない以上、論理の展開も格段に高度で、かつ文章が適度に悪文であることが本文に求められるようになった。「教養」の崩壊を前にして、入試国語が変質を余儀なくされたのである。
なお、本研究の直接の成果ではないが、間接的に関わり、本研究の中間報告的な性格を持つものとして、『評論入門のための高校入試国語』(NHKブックス、2005年3月)を刊行したことを付け加えておく。