表題番号:2003A-827 日付:2005/03/25
研究課題院政期の六道絵絵巻に関する研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学部 助手 井上 聡美
研究成果概要
 十二世紀後半の絵巻「餓鬼草紙」「地獄草紙」「病草紙」は、後白河院(1127~92)が、蓮華王院の宝蔵に蒐集した絵巻コレクションの一角であった可能性が既に指摘されている。またその制作に、後白河院周辺での活躍が記録に残る絵師、常磐源二光長の関与も想定されている。しかしながら、これらの現存作品と後白河院や絵師光長との関係を直接に証明する同時代史料は存在しない。本研究では、絵師光長筆の問題に焦点を絞り関連文献を収集し、中・近世の絵巻鑑賞の歴史を通じて、院政期の六道絵絵巻と絵師に関する言説が形成された経緯を確認した。
 まず、常磐源二光長という絵師の名前について、福井利吉郎「伴大納言絵と常盤光長」(『絵巻物概説』下、岩波書店)は、『吉記』承安 3年(1173)7月12日条、『玉葉』同年 9月 9日条に、後白河周辺の宮廷絵師として記録されることを指摘する。一方、蓮華王院宝蔵に六道絵絵巻が秘蔵され、鎌倉時代以後西園寺家に伝来したことが、小松茂美「餓鬼・地獄・病草紙と六道絵」(『日本絵巻大成』7、中央公論社、1977年)によって検証されている。しかしながら、鎌倉以前の史料中には絵師光長と六道絵絵巻との直接の関係は見出せない。
 室町時代には、公家・武家間での絵巻の閲覧や貸借に関する記録が散見されるが、その中で『看聞日記』嘉吉 1年(1441)4月26日条では、後花園天皇が「伴大納言絵」他、院政期に制作された絵巻を閲覧し、絵師については、平安時代初期に活躍した巨勢金岡との記録を残す。さらに同日記同年5月 9日条では、後崇光院が西園寺家伝来の「六道絵」を閲覧している。また『言継卿記』天文18年(1549)9月11日条では、蓮華王院旧蔵の「年中行事絵」奥書が筆写され、絵師について光長筆と記録されている。このように室町期には鑑賞という経緯を経て、院政期に制作された絵巻の伝来や絵師に関する言説が次第に形成されていったものと思われる。しかしながらこの時点でもなお、六道絵絵巻と絵師光長を直接に結ぶ史料は存在しない。
 ところが江戸期に入ると、『土佐系図』『倭錦』『古画備考』『安斎随筆』『本朝画事』『国朝絵巻考』など18世紀後半以降に成立した画史類に、「年中行事絵巻」「伴大納言絵巻」はじめ、「餓鬼草紙」「地獄草紙」「病草紙」などの院政期を代表する絵巻に関して、しばしば光長筆と記録される。その際光長には、土佐、春日、藤原といった土佐系画派の姓が与えられ、やまと絵の一派である土佐派の先祖として、また同時に院政期絵巻の筆者として位置づけられている。
 以上、本研究においては平安末から江戸期の文献中に現れる、院政期の六道絵絵巻や絵師光長に関する記録を再検証した。その結果、室町期の絵巻鑑賞を通じて絵師に関する伝承が形成され、これを踏まえて江戸期には、やまと絵の継承者である土佐派の系譜意識を媒介に、これらの六道絵絵巻と筆写光長の名前が結び付けられていく過程が明らかとなった。