表題番号:2003A-802 日付:2004/03/26
研究課題焦菊隠と演劇教育―俳優教育における近代化のプロセス
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 政治経済学部 助教授 平林 宣和
研究成果概要
 本研究は、中国の演出家焦菊隠の民国期から建国初期に至る演劇教育論および実践の跡をたどり、そこに現れた中国の俳優教育近代化のプロセスを析出することを目的とした。以下、今年度の調査活動によって明らかになったいくつかの事柄に関して、ここに報告したい。
 まず論及の対象とする時期について、当初の民国期から建国初期という枠を、1938年から1953年までに限定することにした。これは焦菊隠がフランス留学の成果として1938年に執筆した博士論文『今日之中国戯劇』を起点、建国後の1953年8月に北京で行われたスタニスラフスキー逝去15周年記念会における焦菊隠の講演『スタニスラフスキーに学ぶ』を終点とするのが適切と判断したためである。
 この期間における焦菊隠の演劇教育論の変遷をたどると、旧劇(伝統演劇)俳優養成論から、スタニスラフスキーシステムの本格的受容へと大きく様変わりしている。留学前に校長を務めた中華戯曲専科学校での経験は『今日之中国戯劇』に反映されており、また1940年には『旧時的科班』および『桂劇演員之幼年教育』という二つの文章を発表している。この数篇の文章が、焦菊隠の当時の俳優教育論を代表しているといってよいだろう。
 しかしながらこれ以降、旧劇教育に関する文章は急速に影を潜め、ほぼ10年後の建国前後になると、スタニスラフスキーに関する言及が圧倒的となる。とりわけ先述の講演『スタニスラフスキーに学ぶ』は、当時焦菊隠がすでに新中国におけるスタニスラフスキーシステムの代表的専門家と目されていたことの証左と言えるだろう。
 旧劇教育論からスタニスラフスキーシステムへの傾倒という焦菊隠の関心の変遷は、抗日戦争から新中国建国へと至る時代の流れの反映である一方、後に観察されるスタニスラフスキーシステムと伝統演劇界との接近を予告するものでもあろう。今回は概観レベルにとどまったが、以後も両者の関連について詳細に調査を続けたいと考えている。