表題番号:2003A-524 日付:2005/03/21
研究課題亡命の諸前提---女性作家の亡命と、亡命先での活動について
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学学術院 教授 松永 美穂
研究成果概要
 ドイツにおけるナチ時代の大量亡命について考察する際、女性のおかれた立場についてはこれまであまり研究がなされてこなかった。今回の特定課題研究ではその点に着目し、ユダヤ人の共産主義者としてヒトラーの政権奪取後まもなく家族とともに亡命を余儀なくされた作家アンナ・ゼーガースの亡命中の行動と、亡命中に執筆したテクストについて検討を加えた。
 ゼーガースは1933年にフランスに亡命後、ドイツ軍のフランス侵攻に伴い、1941年にはメキシコに亡命している。そして、メキシコ国籍のまま1947年にドイツに帰国し、当初はベルリンのアメリカ占領地区に住むが、後に東ドイツ国籍を取得、作家同盟などで重要な役割を果たすようになる。
 亡命中の生活について、生前の彼女は公の場では多くを語らなかったが、1983年の彼女の死後になって、同じ亡命者だったヘルツフェルデとの書簡集が出版されたり、FBIが共産主義の亡命者として彼女を監視下においていたことを示すドキュメントがアレクサンダー・シュテファンによって研究・出版されるなど、さまざまな新事実が明らかになりつつある。また、2005年になって彼女の息子であるピエール・ラドヴァニが亡命中の生活について回想録を発表し、亡命中の家族の日常生活の維持や子どもの教育のためにゼーガースが心を砕いていた様子を、さらに具体的に知ることが可能になった。
 亡命中の彼女のジェンダー観については、亡命中に書かれたジャンヌ・ダルクについての戯曲、「亡命中の女性と子どもたち」というエッセイ、またアレクサンダー・シュテファンによって発見されたテクスト「レンデルと呼ばれた男」などをもとに推察することができる。「レンデルと呼ばれた男」では、働き手の夫を突然失った妻が、生活を維持するために死んだ夫に成りすまして働き続ける様子が描かれている。この「成りすまし」は結局破綻のときを迎えることになるのだが、ゼーガースが伝統的な性別役割を肯定しているとこの結末から安易に判断することは妥当ではないだろう。むしろ社会的に固定された役割を打破することの難しさ、女性にとっての生き難さがこの短編からは伝わってくるのではないだろうか。戦争や亡命といった非常事態において、女性(母親)はしばしば男性(父親)の役割も肩代わりせねばならず、それは社会進出のチャンスをもたらす一方で、個人的な負担を大いに増大させる結果ともなる。ゼーガースの小説における「男性的視点」はしばしばフェミニズム文学研究者の批判の対象となったが、亡命中のテクストには「女性たちの勇気と覚醒」とともに「現実の厳しさ」が描きこまれていると考えることができる。