表題番号:2002A-595 日付:2004/04/04
研究課題「大正デモクラットの国際交流」に関する予備的考察―大島正徳の事例研究―
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 大学院アジア太平洋研究科 教授 後藤 乾一
研究成果概要
大正デモクラット大島正徳(1880-1947)の思想と行動を一校校友会誌、内外教育評論、丁酉倫理講演集、帝国教育などの雑誌を利用し分析した。大島は哲学、倫理学の分野では知られているが、国際文化交流面での活動はほとんど知られることがなかった。
とりわけ1937年7月東京で開催された第7回世界教育会議では事務総長として会議を成功に導いたが、この会議は日本が国際的な孤立化に進む中で開かれた最後の国際会議であった。欧米、アジア諸国など世界各国から900名近い教育専門家が参加し、教育を通じての世界平和の構築を議論した事実は、戦間期日本の国際交流を再検討するうえで貴重な意味を有している。本研究ではこの会議に関する一次資料を読み込むとともに、1923年以降の世界教育会議を跡ずけ、国際交流史におけるその位置ずけを試みた。
また大島は、1935年に国際文化振興会の委嘱でフィリピンとの文化交流促進を協議すべくマニラを訪問している。アメリカからの一定の自治を認められた同国との文化面での交流は、日本の南進政策とも深い関係を持っていたが、日本・東南アジア交流史の中で特異な意味を有していることも無視できない。このような戦前期からのフィリピンとの関係を背景に、大島は開戦とともに蝋山正道、東畑精一、末川博ら当時の第一線の学者とともに比島調査委員会の一員としてマニラに長期にわたり滞在する。本研究では、このときの膨大な調査報告書を分析し、その歴史的な意味を探るとともに、大島のフィリピン認識の特質についても考察した。
大島は、1925年に東京帝国大学教授を辞した後、東京市学務局長、帝国教育会専務理事などを歴任するが、その傍ら思想、文化、国際交流などの分野で膨大な量の著書、論文を発表している。これらの著作を分析し、忘れられた大正デモクラットとしての大島の役割とその時代的定位を考察することが出来た。