表題番号:2001A-809 日付:2002/04/23
研究課題刑法における責任事情の錯誤
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 法学部 助教授 松原 芳博
研究成果概要
 2001年度は,責任事情の錯誤の取り扱いを禁止の錯誤と同様に回避可能性の有無で決するという通説の思考様式のルーツを探求した。周知のとおり,このような取り扱いの実定法上の例として挙げられるのは,1975年のドイツ刑法35条における免責的緊急避難の錯誤の処理であり,ドイツおよび日本の通説的見解を支持する論者は,本規定を自説の根拠として援用するのが常である。しかし、本規定の成立前史ならびに成立過程を辿ってみると、本規定が責任事情の錯誤という事態の性質から導かれたものではないことが判明する。まず、本規定成立以前のライヒ裁判所ならびに連邦通常裁判所の諸判決は,責任事情の錯誤を、回避可能性を問うことなく故意を阻却するものと解しており,このことに対する目だった異論は提起されていなかった。また、57年草案では、違法阻却事由の錯誤と責任阻却事由の錯誤に関する総則規定が設けられたが,そこでも回避可能性を問うことなく故意を阻却するものとして扱っていたのである。その後,62年草案で、緊急避難については、無関係な第三者を害するものであるがゆえに、その錯誤についても慎重な検討がなされた場合に限って免責すべきだということになり、違法阻却事由・責任阻却事
由の錯誤に関する一般原則(直ちに故意を阻却する)の例外として,緊急避難については軽率な錯誤については免責しないということになった。更に,その後、緊急避難を正当化的緊急避難と免責的緊急避難とに分けて規定すべきだということになったが、正当化的緊急避難については錯誤規定は規定されず、結局,免責的緊急避難についてのみ、軽率な錯誤は免責しないとする規定が残ることになったのである。一方,違法性阻却事由・責任阻却事由の錯誤に関する一般原則を定めた規定は削除されることとなった。かくして、ドイツ刑法35条の錯誤規定は,せいぜい特殊緊急避難のみを射程とするものであって,責任事情の錯誤一般にその思想を及ぼすべき基礎を有していないし,その取り扱い自体も必ずしも十分な根拠を有していないといわざるをえない。かくして、責任事情の錯誤の取り扱いを回避可能性によって決するという通説的見解の基盤は,必ずしも堅固なものではないことが明らかになったのである。
 今後は,故意の意義あるいは責任判断の構造という観点から,回避可能性を問うことなく故意を阻却するという解決の正当性を探求していきたいと思う。