表題番号:2001A-048 日付:2004/03/25
研究課題89年以降のドイツ文学における「故郷」の変貌
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学部 専任講師 山本 浩司
研究成果概要
 89年以降、近代的な「国民国家」の枠組みが揺らいできた。「主導的な国民文化」を「回復」しようとする動きが保守派からたびたび起きているが、それも「国民国家」の揺らぎに対する深刻な危機感の表れでしかあるまい。
 本年度の特定課題研究では、「主導文化」という保守派の幻想を撃つために、移民文学、(2)国外ドイツ人(アウスジ-ドラ-)文学を中心として、「ドイツ文化・文学」における周縁部やマイノリティの果たす役割を検討した。
 まずドイツ社会も80年ごろから多文化社会となってきたという事実がある。あたかもドイツ的国民性が歴史を超越した揺るぎない本質であるかのように、そのまま戦前の古き良き文化伝統につながることはもはやできない。それではどのような「故郷」概念の見なおしが可能だろうか。
 デミルカンやエズドガンら第2・第3世代の在独トルコ人の文学は、差別と戦う第1世代の社会批判から、アイデンティティの揺らぎを主題とするようになってきた。しかもその描き方もポップな方向に移ってきている。移民文学は、こうした二重の疎外をマイナスと見るのではなく、むしろ二つの文化アイデンティティを選択するという発想、ひいては何かに帰属するという意識そのものを問うまでになってきているのだ。現実の故郷も含めて、もはやいかなる場所も故郷たり得ないという故郷喪失の認識に立つことで、近代以降自明のように語られてきた故郷=国家=民族=言語という結びつきに疑いが向けられるのだ。
 これとは逆に伝統的な血統主義によって無条件にドイツ国籍取得を認められているアウスジードラーの文学も変わってきた。かつては「ドイツ文化」への帰属を誇る郷土賛美的な文学が主流であったのに、特にルーマニア系のドイツ人作家たちにみられるように、「純血性」というナショナリズムの発想を批判するものが生まれている。これは、「葛藤なき民族共同体という幻想」と「ファシズム的領土拡大」を正当化するのに利用された1930年代の「外地ドイツ人の文学」への痛烈な批判にもなっている。したがって、彼らには肯定的に語ることのできる「故郷」はもともとどこにもない。ドイツに出国した彼らは、今度は「政治的迫害者」なのか「ドイツ人帰還者」なのか判然としない、当局の分類の図式から抜け落ちてしまう存在となっていく。
 こうしてまったく別の方向から「ナショナリズム」や「故郷」なる概念をたたく二つの文学であるが、表現の方法については大きな違いを見せているともいえる。トルコ系の作家たちが得てしてオリエント的なメールヒェンの手法を作品に取り込み、場合によっては安手なオリエンタリズムに陥っているのに対して、ルーマニア=ドイツ人作家のなかには、言葉を極限まで切り詰めていくことによって、かえって豊かな可能性をみせるこに成功しているものがある。