表題番号:2000A-811 日付:2002/02/25
研究課題1930年代日本映画の歴史社会学的研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学部 教授 長谷 正人
研究成果概要
 1930年代の日本映画を象徴するものは、いわゆる「明朗時代劇」と呼ばれるような、稲垣浩、伊丹万作、山中貞雄らの新しい時代劇の運動だったと言えよう。20年代後半には伊藤大輔らの悲愴な反英雄的時代劇や傾向映画的な趣を持った作品が隆盛だったのに対して、30年代には小市民的で庶民的な明るい時代劇が流行ったわけである。この劇的とも言える変化には、「検閲」の問題が絡んでいると思われる。むろん公権力は百姓一揆に仮託して反権力のメッセージを持った傾向映画をずたずたに切り裂いた。映画作家たちにとって、そのような抑圧的状況は表現の障害になったに違いあるまい。しかしこのような権力による目に見える抑圧だけでなく、映画作家の表現方法にとってより内在的な「検閲」もあったのではないか。それはチャンバラという暴力シーンに対する「検閲」なのだ。だからたとえば伊丹は、それまでの時代劇を「殺人映画」と呼んで批判しているし、稲垣はチャンバラは時代劇にとって盲腸のようなものだと否定している。つまり彼らは、それまでの時代劇がヒーローのアクションを売りにする「視覚性」の強い芸術だったのを否定して、セリフと人間心理を中心としたドラマへと変更させようとしたのである。したがって「傾向映画」から「明朗時代劇」への流れはたんに映画の「保守化」とだけ捉えられるべきものではない。たとえば「傾向映画」は強い視覚的効果によって観客をコントロールしようとした。メッセージとしては左翼的だったとしても、観客を統制したい欲望が孕まれているという意味では、それは全体主義的だったのではないか。したがって「明朗時代劇」は、20年代と40年代に挟まれて、観客をメディアによってコントロールしたいという欲望を宙づりしてみせた貴重な試みだったとも言えるのだ。むろんその試みは、40年代になって全体主義によって簡単に圧倒されてしまったとはいえ、そこにあった政治的可能性についてさらに考える必要があるだろう。