表題番号:2000A-558 日付:2002/06/27
研究課題田中王堂の基礎的研究--個人主義の再検討--
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 政治経済学部 教授 堀 真清
研究成果概要
王堂田中喜一は、明治末より大正末にかけ、論壇を風靡したが、その人となりについては平塚雷鳥や王堂の愛弟子石橋湛山らによる階層から面影が想像されるだけで、いまだ一冊の評伝、研究書もない。王堂はわが国におけるプラグマティズム哲学の重要な紹介者にとどまらず、個の確立と民主主義社会の建設につき果敢に論じた言論人であり、福沢諭吉と丸山真男とを架橋する思想家としても興味深いのだ....
本研究は先ず、従来の断片的な王堂論を渉猟し、次いで王堂の思想の形成と展開、その特質を追求する。その上でその思想活動の問題点と意義に及ぼうというものである。筆者は第一の課題につき、早稲田大学政治経済学雑誌第349号に「田中王堂論覚書」を発表(近々、公刊)、
これまでの王堂論では、彼の主張した徹底個人主義に対し、多大の関心が払われてきたことを明らかにするとともに、その思想内容は十分には分析されていないことなどを論じた。
(この作業を通じ、たとえば王堂の論争相手の一人であった夏目漱石における日本近代化への洞察と憂慮を王堂のそれと比較検討する視点など、今後の研究において生かしてみたいことをいくつか発見し得たことは一応の収穫である。)
以上の「覚書」を提出したところで在外研究の実施となり、少時、発表は中断されるが、王堂思想の特質については、二宮尊徳,福沢諭吉(町人諭吉が思想家福沢として認知される端初は王堂の福沢研究によって与えられた)はじめ、T.Carlyle,M.Arnold,J.Ruskinら偉大なVictorians、さらにアメリカ人のJ.Dewey、スペイン人のG.Santayanaらの影響を評量しなくてはならないと考えている。なお、ビクトリア時代の思想的担い手のうちCarlyleは人間関係は決してcash nexusにとどまらないことを,   Arnoldは社会がその個性を十分に発揮するためには、平等と欲求の自由奔放を選択しなければならないことを,   そしてRuskinは同時代人を理解するには経済学者の狭溢なアプローチでは徒労に終ることを論じたことでそれぞれ知られているが、今一人の偉大なVictoriansであるW.Morrisについては王堂にこれといった言及がない。Morrisは、知性・勇気・力から構成される人間の合力(人間の意志)によって社会を作りかえることができると言い、かつ実践した革命的社会主義者(H.J.Laskiの評)である。王堂はVictoriansの思想に多くを学びつつも、資本主義社会の弊害に鋭く対決したMorrisを尊重しなかった。これは彼の思想的特質と何か関連があるように思われるが、果してどうか。論点の一つである。
また、王堂はDeweyのシカゴ時代に教えを受けた(Deweyが在職10年でコロンビア大学に移ったのは1904年)ことから、知性の任務と教育の役割―Deweyの教育理念は、彼自身の言葉によれば、W.Jamesのいう人間本来の性向の重要性を確認することに依拠していた―に甚大な注意を払うようになったと考えられるが、王堂に与えた影響の大きさから言えば、Santayanaのそれが一段と重視されるべきではないかと思われる。Santayanaはその倫理についての探求の中で、「倫理というのは、アリストテレスが述べたように、政治の一部である。人間が人間であるための技術の根底である。そして、倫理の判断基準は生けるものの間の調和である。しかし、いかにしてこの調和は達成されるべきか?・・・」と、調和をめぐる議論を展開したが、王堂もまた調和の哲学―精神の内的条件と生存の外的条件との間の調和の哲学―に多大のエネルギーを費やしたように見受けられるからである。
以上の思想的特質をめぐる試論は、前述のように在外研究終了後に、改めて提出し、特定課題研究助成費の恩恵を明らかにしたい。
    研究成果についてはかくてその一部しか報告できないことを恐縮している次第です。