表題番号:2000A-049 日付:2002/02/25
研究課題法起寺の発願と造寺造仏について
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学部 教授 大橋 一章
研究成果概要
 法起寺(ほっきじ)は奈良県生駒郡斑鳩町岡本の地にあり、創建当初の建造物としてはわずかに三重塔一基がのこるだけで、したがって当初の本尊は伝わらない。一般には法起寺と呼ばれるが、ほかに池後つまり池のしり(尻・後)、うしろという地名による池後寺(いけじりでら)、また聖徳太子が法華経を講じたと伝えられる岡本宮を寺にしたともいわれ、岡本寺(おかもとでら)の名も使われていた。三つのうち法起寺が法号で、池後寺と岡本寺が俗号ということになる。
 法起寺の創立を伝える文献史料には、鎌倉時代の法隆寺僧顕真の撰した『太子伝私記』に引用されている「法起寺露盤銘」がある。法起寺の三重塔の露盤(相輪部)に陰刻された銘文だが、当初の露盤がすでに失われているため実物の露盤銘を実見することはできない。そこで『太子伝私記』引用の露盤銘の真偽問題をふくめた研究が明治以来の法起寺研究の主流であった。その結果、現在では曾津八一氏の研究がほぼ認められているが、それによると法起寺の草創は推古三十年(622)の聖徳太子の遺願によって岡本宮をそのまま寺としたが、16年後の舒明十年(638)に福亮僧正によって彌勒像と金堂がつくられることになった。さらに47年後の天武十四年(685)に恵施僧正が太子の遺願を成就すべく塔を建てることになり、21年後の慶雲三年(706)に完成したというのである。
 発願から完成まで84年の長期にわたっているが、私見によると、20・30年を要した上代寺院の造営期間と比較してもずばぬけて長い。もっとも法起寺は当初太子の岡本宮、つまり住宅建築をそのまま寺に転用しただけであったが、その後本格的な仏教建築を擁した伽藍を計画したため、発願から完成まで長期間となったことも事実である。しかしながら法起寺は尼僧による尼寺として出発したため政治力・経済力に劣っていた。それ故、福亮・恵施が援助したのである。飛鳥時代の造寺造仏では崇仏の有力者たちがその政治力・経済力によって、かつて日本人が見たこともなかった巨大木造建築を建立し、金色燦然と輝く金銅仏を制作したのであった。法起寺はその出発点から他の寺院とは異なる特殊性があった。発掘調査によると本格的仏教寺院とはいえ同時代の飛鳥寺・法隆寺などと比較するとその規模は小さい。
 本研究では法起寺の特殊性が造営期間を長期にしたことを明らかにし、また本尊彌勒と他の太子建立寺院の本尊との関係についても言及したい。